Silent Spring

春の道端は花がいっぱい
誰も見てなくても藤は咲く

もう1ヶ月半電車に乗っていない。美術館も図書館も閉まっているし、行くところがないからでもあるが、忙しいからでもある。大学もオンラインの授業をすることになり、そのための動画などの編集で、毎日10時間以上、パソコンの前から離れることができない。

「今年は動画編集できるようになりたいなー」なんて考えていたら、いきなりやらざるを得なくなった。「渡りに舟」どころか、岸辺からいきなり舟に引きずり込まれ、いきなり一人で舵を取りながら漕げ、といわれた感じ。しかも目の前に急流があるから、その前に岸につけろという。そんな無茶な、と思ったがすでに水の上だ。見よう見まねでやるしかない、と思ってはみたものの、やはり苦手は苦手。毎日ちょっとしたことでニッチもさっちも行かなくなる。でもなぜか、一晩寝ると、あら不思議、昨日のアレはなんだったのか。でも、急流はどんどん迫る。早くなんとかせねば、と考えだすと眠れない。

そんな時、田舎はいい。自転車で10分も行くと、もう畑や田んぼだらけ。すれ違う人もいないからマスクも顎の下にずらしたまま。道端には春の野草、花が満開だ。「イモカタバミ」も初めて知った。見れば確かにカタバミの葉のかたち。マメ科の花は「ヤハズノエンドウ」、別名カラスのエンドウだ。コオドリコソウも覚えた。タンポポはもちろん、菖蒲も藤も満開。でも、それを愛でる人がいない。ふと、レイチェル・カーソンの「サイレント・スプリング(沈黙の春)」を思い出した。

彼女は、DDTの薬害による自然界の物言わぬ死、鳥も歌わない、昆虫もいない世界を、「沈黙」というキーワードで環境破壊の恐ろしさを告発した。コロナで恐れ慄いている今は、鳥もいる、至るところで蝶も見る。川では鯉が跳ねているのも見た。でも、人がいない。別な意味での「沈黙の春」だと思った。コロナは仕方ない。けれど、この異常な騒ぎようはなんなのか。むしろ人災を拡大しているのではないか。おそらく日本では、コロナウィルスによる感染死より、経済的に追い詰められた自殺者の方が多くなるだろうと危惧している。4月中の収入、社会人になって以来、初めてゼロになりました。