面白い本

面白くできたかな?「Apple」と「鳥の習作」

最近読んだ2冊の本。「ほぼ命がけーサメ図鑑」沼口麻子、「身近な雑草の愉快な生き方」稲垣栄洋著、ちくま文庫。「サメ…」は図鑑…確かに図鑑的な内容ももちつつ、ほぼ(研究)エッセイという、少し変わった本。ほぼ体当たり体験でサメ愛に没頭する、その情熱が伝わってくる結構ボリュームのある本。「身近な…」も著者は植物研究者。最近たくさんの本を出しているが、これは文庫で、50種の雑草についての、研究者の視点をベースにしたエッセイ。俳句をやる人にはおススメだ。ただの草が、ただ者でないことを知らずに「草分けて」などとは詠めなくなる。

「ミロの絵本–うっかり地球へ」結城昌子 小学館 という絵本がある。小学低学年対象かな。ミロに注目したところがミソ。図書館へ行くと、子ども対象のアートの本もたくさんある。けれど、大人目線で、言葉だけ理解しやすくしてある、一言で言えば大人感覚の押しつけ、「覚えましょう本」が多い。「ミロ…」を子どもは3分でミルに違いない。けれど、もしかしたら、中身は一生残るかも。大人も一見あれ。

面白い本を読み、見て常に感じるのは、何をやるにも十年単位の「時間がかかるんだな」ということ。著者の情熱が、単なる知識を伝えるだけに終わらせず、著者自身に様々な体験をさせ、冒険をさせてしまう。著者自身が体験的に過ごしてきた、その数百分の一、数千分の一の時間を著者と共有させてくれる本。それが私の「面白い本」の定義であるらしい。

見る

Apple

「見る」ということが(見る、だけでなく全てのものがそうだろうが)複層的な構造をしているということは誰でも経験的に知っている。複層的とは、「見る」にも、生理的以外に心理的な面など(むしろそちらの方がここでは問題だ)たくさん意味があるということ。味を見る、調べる、検査する、試行する、考えるなど、「見る」にもたくさんの意味があり、私たちはそれらの意味を意識的、無意識的に、切り替えて「見て」いるということ。

なあんだ、国語の問題ではないか、という人もいるだろう。けれど、私たちが絵を描き、絵を見る時、あるいは音楽を聴く時でも、音に反応し、色に反応し、作者を知ればその知見がまた反応にフィードバックし、その度にまた新しいものが見えたり、せっかく見えたものが失われたりする、現実の「見る」ことに直面するわけで、決してたんに言葉=国語の問題として、済ますことはできない。

そういう意味で絵を「見る」ことは(難しいということではなく)単純なことではない。描くこととほとんど変わらないのではないか、とさえ思える。描く方が、むしろ絵の具の取り扱いやその他のことに取紛れ、対象も画面もろくに見ていないことさえあり得る。

その上で、あらためて「単純に見る」ことの意味を考える。

ビジョン

「Apple」習作

絵画とは「ビジョン」だけで完結するものかも知れない。ビジョンとは、「見えること、もの」をいう。それを「画面に定着」することは必ずしも必要でない。そういう意味ならすでに映画やビデオがある、というより、もっとラジカルに、仮に言葉で聞き手の脳に像を描かせることさえできれば、それを絵画と呼んでいいのではないか、という意味で。

あるいはビジョンのリアリティと、言っていいかとも。むしろ絵画にとってはこの方がずっと重要で、「見る人にとって」リアリティの無いものは絵画ではない、と言ったらどうだろうか。当然リアリティとは何か、ということになるが、それは「見る人」次第ということになる。作者はどこへ行ってしまうのか?それでは不特定多数に対して発表する絵など描けないではないか。いや、作者は作者で、見る人のことなど考えずに、自分のリアリティだけ追求すればいいのだ。作者と見る人の関係が断絶していることにおいて、初めて本当の関係が成り立つのかも知れない…などとぼつぼつ。