シェルターの花

透明カプセルの中の花
シェルターの花 f6 mixed-medium

2010年暮れに「シェルターの男」という題の作品を5、6枚続けて描いた。初めは防波堤型のコンクリートのような壁の内側に立って?いる、男だった。そのうちシェルターの形が、少しカプセル状に変わってきた。そこへ今度の大津波と原発事故!何ですか、この恐ろしい一致は!

カプセルのヒントは花粉症の人のためのアイデア、宇宙服の顔部分のイメージ。なのに公開の時期によって、この絵は放射能を暗示していると多くの人が思うに違いない。以前、山から元気よく真っ赤になって下り降りる雲のシリーズを描いた。そしたら雲仙普賢岳が爆発し、絵とそっくりの火砕流が毎日テレビで報道され、私はそれを見て描いていると、殆どの人がそう思ってしまった。それより何年も前から描いていたのだが、テレビの力に吹き飛ばされてしまった。表現の力不足だった。

今回もそうなるかもしれないが、これはあくまで私のイメージ。実際の花のスケッチや、高山の厳しい気候に対応する植物の驚くべき機構など、いろいろなものを組み合わせて、実際に在っても不思議ではない存在感として見せたいという思いは、人間だか鬼だかわからないような「男」の存在感と同じ。今回はもっともっとイメージを練り上げ、テレビに負けない表現力をつけたいと思っている。

「節電」が怖い

この夏の電力需給のひっ迫を先取りして、節電の強制、半強制、お願いのそれぞれに、それぞれの方法が検討されているようだ。NHK(を見るなんて恥ずかしい気がするが)を見たら、家庭での節電の方法がいろいろ紹介されていた。なんと「楽しく節電しよう」!家庭で、子どもと節電ごっこをする・・、節電ゲーム・・等々。学校でも「誰かが教室の電気を消してくれました・・」。見ていて鳥肌が立つほど怖くなった。この調子では、本当の夏場になれば、隣同士、町内での「あそこの家は節電に非協力的」「あそこは朝からクーラーをつけている」など、まるでかつての共産圏の密告社会のようになるのではないかと思ったのだ。

心配し過ぎ、今の日本でそこまでは無い、と言う人が多いだろうが、私は決してそうは思わない。節電の旗振り役をやる人が、必ずと言っていいほど節電警察の役もやるだろうと思っている。たとえば自発的に始める清掃奉仕。初めはいいが、そのうち参加者が増えてくると、参加しない人が「悪い奴」にされていく。参加しないだけなのに「ゴミを捨てる奴」「敵対する奴」とだんだんにエスカレートしてくる。PTAなどに出るとそんなことが当然であるかのように起きている。同じことが「節電」でも起きると考える方が自然ではないか。

村上春樹の「1Q84」が一昨年、ベストセラーになった。そのもとになった(というのは言い過ぎだが)ジョージ・オーウェルの「1984」を読んだ人は、「1Q84」の読者より少ないかも知れない(この際だから、読んでない人には一読をお勧めする)。描かれているのは、1984年が近未来である時点でのヨーロッパの仮想の国。そこは一種の管理、監視国家だが、よくみるとそれは現代の私達の生活をほんの少しいびつに照らし出しただけのように見える。その近さに私は身震いした。

選挙がありました

4月10日、統一地方選挙の第1弾が、岩手、宮城、福島の3件を除く全国で投開票された。

結果はご存知の通り、民主党の独り負け、みんなの党の独り勝ち。自民党が躍進したかに見えたが結果からいえば勝ちとも言い難い。ただ、勝ち負けも含めて、どさくさ選挙だったという印象が強い。

東日本大震災のショックがあまりにも大きすぎ、まだ悪夢の中にいるような気持ちの中で、碌な公約も、ビジョンも示されないまま、若さだけが売りだったりの人に投票しなければならないという、不毛の投票日。みんなの党が躍進したからといって具体的に何かをしたわけではない。民主党が千鳥足になった挙句に、勝手に転んだ手から牡丹餅を拾っちゃった、という感想だ。多くの民衆にとっては、「いま選挙やってる場合じゃないだろう!」という怒りの方が強かったのでは?

こんなショック状態のときは、新しいことをやろうとする人は不利な立場になりやすい。思考停止状態にあるのだから当然だ。本当はこんな時だからこそ、新しいことを考える人が必要で、後で正気に戻った時に「えっ、あの人が当選だったの?」というため息に変わる可能性がありそうだ。

話はかわるが、絵にも同じことが言えそうだ。みんなが暗い気持ちになっている今、単純に明るく楽しげな、元気の良さそうな絵が特に受け入れられそうな気がする。暗い気持から抜け出したいという気分は実際、私にもあるのだが、そのような方向にだけ、どんどん流れていきそうな気がする。そんな時にあえて暗い気分の絵を描くのはとても勇気が要る。