グレーの使いかた

「スーパーのさんまパック」 水彩

この絵、パッと見た時に「スーパーのパックなんか見せてどうすんの?」と思ってもらえたら嬉しい。スーパーで売っていた「春のさんま」(「秋刀魚」とは書いていなかった)。

教室で「こんなモチーフも面白いと思うんだけど」と、スーパーで撮った写真のコピー数枚を教室でビラビラ振ってみた。難しいモチーフだから、誰も持って行かないと思っていた。

ところが、ところが。課題でもないのに次の会にみんな描いてきたではないか!しかもそれが、みんな自分なりの個性的なポイントで捉えていて、とっても良かった!嬉しくなったどころか、逆に刺激も受けたんです。
 もしも公募展などにチャレンジするなら、ただ魚を上手に描いて見せるのではなく、たとえば「スーパーマーケットの店頭で」という現代(時代)性のほうをテーマにするという方向もあるよね、という程度の一例に過ぎなかったのに。

それで自分も描いてみたってこと。サンマそのものより、「パックに入って並んでいる」ことが狙いなので、冒頭のように見てもらえたら嬉しい、というわけです。現在、ホルムズ海峡封鎖などで、石油関連製品の品薄感が社会問題になってきているから、この場合も、「さんま」より「トレー」の方にピントを合わせる視点は、より意味があるだろうと思う。
 時間がかかるモチーフだというのは描く前から分かっていたが、やっぱり結構時間かかった。そして、これは「グレーの使いかた」のいい課題になるなあと、あらため考えた。

AIは絵を読めない

「ジャーマンアイリス」  アキーラ・水彩

「絵には何が描いてあるのか?」って、なんだかバカげた質問のように感じますよね?たとえば○○の風景、とか△さんの肖像とか、だろ。まあ、それが普通・・でしょうか。

「○○の風景」という題の絵の前で、本当にこれがその地の風景だと思って見ているんでしょうか。展覧会などで、絵ではなく「絵を見る人」を鑑賞していると、わたしにはとてもそうは思えないんです。例が適切でないかも知れませんが、たとえばゴッホの「カラスのいる麦畑」。ああ、麦畑にカラスがいる風景なんだなー、ってホントにそう思いながら見ている人など、一人もいないんじゃないでしょうか。

当たり前のようですが「カラスのいる麦畑」で、あなたが見ようとしているのは麦畑でもカラスでもなく、「ゴッホ」ですよね。麦畑の隅っこにイーゼルを立て、短髪にぎょろぎょろした眼を光らせながら、気が狂ったかのように筆をキャンバスに叩きつけるように描いている、耳のない人。あなたが見た「カラスの・・」には、キャンバスの端っこにゴッホが描かれていたはずです。そして、あなたはその麦畑のなかでカラスの声を聞こうとしていたのではなかったですか?。
 多くの人は、たぶんそういうふうに絵を見る。そういうふうに絵を読んでいるんですよね。

嬉しい?ことに、それがAIにはできない見方、読み方だと思います。○○風景という文字データと画像(映像)データがあれば、これを結び付け、さらにいまわたしが書いたような記事があればそれも読み込んで、第三者にもっともらしく説明することはできるようです。
 けれど、人間には「○○風景」というテキストデータがあり、そこに画像データがあるにもかかわらず、「そこ(データ)にないものを読む」ことができる。AIにすべてを奪われず、なんとか共存していくためにも、「絵を読む」ことに努めましょう。

つまらなそうな絵

         「日なたの薔薇、日陰の薔薇」  水彩

こういう絵は、一般鑑賞者から見るとつまらないかもしれない。でも、描く側から見ると、明暗の入れ替わりとその効果が味わえて、意外に面白い。

どういうことかというと、まず、①日なたの薔薇(薔薇に見えない、という人にはゴメンねというしかないが)と日陰の薔薇が、色違いなのに同じものだと思わせること。そのためには、ここは日向だから白っぽくていい、これは陰だから暗く見えるのは当然、という「錯覚」を作り出すこと。心理ゲームなんですよね。 ②同じ葉っぱでも、それを置く場所の明度に合わせ、4つほどの明度を使い分けること。造形思考の確認ですね。それが一種のゲーム感覚を味わえて楽しいのである。

昔、これと同じことを授業でやったなあ、と懐かしい気もしたが、ゲーム的な面白さまでは伝えられなかった。それは残念。