軽い絵、重い絵

「鳩と薔薇」 水彩
「林道の橋(部分)」 水彩

「鳩と薔薇」では、できるだけワンタッチで描こうとしていた。筆を重ねたとしても、なるべく大きな面積を、一回だけ重ねることが目標だった。ちょっと変わった構図だが、小さな薔薇の鉢植えに、お尻を隠すようにしているのを上から見ているという発想だ。

なぜワンタッチかといえば、前回の「林道の橋」で、かなり描写的になったことへの反動だ。別に描写的なことが悪いと言っているわけではない。前回は描き過ぎた感じもあったから、バランスを取るために二歩ぐらい引いてみた、ということ。

絵を描くことは、時には薬のように働く。描くことで気分がスッキリと軽くなったり、反対にそのことによって気持が重たくなるどころか、八つ当たり気味にものを壊してみたり、さまざまな “副作用” が現れたりすることもある。毒にもなるのだ。

重たい絵(一般的に言えば時間、体力・気力が必要な絵、としておこうか)が気分を重くするとは限らない。大きな満足感や充実感を得られることも少なくない。
 軽い絵、重い絵。それぞれに用法、用量があり、どちらにも「効能」があるようだ。症状(気分)に応じて使い分けるのが良い。

何が描いてあるのか

「カンパネラのある静物」  水彩

絵には実際に現物を見なければ分からないところがたくさんある。一方、近くで現物を見ることで、かえって見えなくなるものもある。

写真や印刷物では見えないものは細部。たとえば、遠くから一様にぬられているようにみえる油絵の、間近でしか見えない筆の動き。右からか左からか、その早さなど。ロープを張って、絵に近づかないよう制限する展覧会もある。作品保護の観点からは確かに仕方ない面もあるが、そこを見たい人、そこが見える人にとってはじれったい仕打でもある。

そうやって現物を見るとき、逆に見えなくなるのは、作者の意図のようなもの。近くで見ると作者のテクニックがアクティブ過ぎて、彼らの冷静な計算が見えなくなる。感情的な身振りの陰に隠れた、周到な配置など。これはずっと後になって、画集などで何度も見返しているうちに、「もしかしたら」と急に見えてきたりするもの。作者の軽い “めまい” のような何かも、その時は分からない。

具体的に何が描いてあるかは、鑑賞者にとって、重要だが不可欠なものではない。それを描いている「作者の姿」、そこに描かれている「作者の計算」を見るものだから。
 「魂は細部に宿る」という名言がある。ことさらな細部など無さそうな絵にも、隠れられない作者の姿はあるのである。

白の用法-終了

           「紫陽花」   水彩、アクリル
アクリルとの併用部分

水彩で白を使う用法をまだ少し探求中だが、ほぼ結論が出てきた。上の写真はスタートを水彩だけで始め、下ではアクリルを併用したもの。

絵としての出来は正直言うと見せたくない。でもまあ、このへんが実力ということで。スタート時はあまり最後のことまで深く考えず、顔の色を背景と無関係に描きだしてしまった。このまま水彩で進めると赤系の陰が浮き上がってしまう、という失敗のケース。

そこを、アクリル系の白をやや厚めに塗ることで、肌の赤みを隠蔽できる(水彩で青みも加えた)、というのがポイント。しかもガッシュや水彩のチャイニーズホワイトなどと違い、その上に水彩絵の具を重ねても、“溶けて濁らない” のがミソ。多くの人にとってはたぶんこちらの方がずっと使い良いはず。テンペラもいいけれど、「乾燥時間」のズレが問題。

水彩の白を混ぜて、一発で狙いどおりにパステル調の色を作れる人にとっては、面倒くさいだけのことではあるのですが。