何が描いてあるのか

「カンパネラのある静物」  水彩

絵には実際に現物を見なければ分からないところがたくさんある。一方、近くで現物を見ることで、かえって見えなくなるものもある。

写真や印刷物では見えないものは細部。たとえば、遠くから一様にぬられているようにみえる油絵の、間近でしか見えない筆の動き。右からか左からか、その早さなど。ロープを張って、絵に近づかないよう制限する展覧会もある。作品保護の観点からは確かに仕方ない面もあるが、そこを見たい人、そこが見える人にとってはじれったい仕打でもある。

そうやって現物を見るとき、逆に見えなくなるのは、作者の意図のようなもの。近くで見ると作者のテクニックがアクティブ過ぎて、彼らの冷静な計算が見えなくなる。感情的な身振りの陰に隠れた、周到な配置など。これはずっと後になって、画集などで何度も見返しているうちに、「もしかしたら」と急に見えてきたりするもの。作者の軽い “めまい” のような何かも、その時は分からない。

具体的に何が描いてあるかは、鑑賞者にとって、重要だが不可欠なものではない。それを描いている「作者の姿」、そこに描かれている「作者の計算」を見るものだから。
 「魂は細部に宿る」という名言がある。ことさらな細部など無さそうな絵にも、隠れられない作者の姿はあるのである。

自然の匂い

      「時化の日」 水彩

自転車で散歩に行くと水や草の匂いがする。夏に近づくにつれ、その水の匂いの中に濁ったものが混じり込んでくる。現代は「無味無臭」が誰にも不快感をもたらさないと重宝されるようだ。あるいは「統計化」された “爽やかさ” 。わたしはたとえ不快なものが混じり込んでも、それを「自然」の一部と思う派である。

ときどき、潮の匂いがたまらなく恋しくなる。海辺の匂いも決して好ましいものばかりでなく、打ち上げられた海藻も、暑くなればやはり同じように腐臭を発する。磯周りなど、あらゆるところに微妙な生き物がいて、それぞれにそれぞれの匂いを発する。同じ海水であっても、潮だまりと外洋とでは深山と田んぼほど違う。
 決して “かぐわしい” だけではないのだが、それらを含めて “海の匂い” が恋しい。

時化の日。ウミネコは飛ばずに風をよけて佇んでいる。ウミネコはカモメより一回り小さく、風に向かって飛んでも全然進まないのを見ると、つい笑ってしまう。カモメは悠々と空を飛びまわる。
 アンヨが黄色いのがウミネコ。カモメは赤。この絵では風はそれほどでもなさそうだ。もう少し風が強まれば、皆いっせいに風の方向に頭を揃えるはずだから。