澄んでいること

ビー玉とりんご

透明なものに、なぜか人は心を惹かれるようだ。「宝石」はまあ特別としても、ガラスが玻璃と呼ばれ、宝石以上に珍重されたらしいことは、奈良正倉院のペルシャガラスが今に伝わっていることからもわかる。古代インドあたりに栄えたムガール帝国のムガールグラスにも、決して現代のガラスのように透明ではないが、やや乳白色がかったぼんやりした反透明感にも、えもいわれぬ魅力を感じたことを思い出した。

「透明」と「澄んでいること」は同じではないが、共通したイメージはある。さらに想像をつないでいくと「澄んでいる」と「濾過された」も意味が近づいてくる。濾過された水は美しく、透明であるが危険でもある。栄養分すら取り除かれてしまい、「水清ければ魚棲まず」となることもあり、透明に近い血は死の危険性が香る。

完全に透明なものは目に見えないはずだから、そこに光が反射したり、屈折があったり、ほんのすこしの淡い色があったりすることで「透明」と意識される。それは澄んでいることにつながり、長い時間をかけて「濾過」された水のイメージにもつながってくる。川底の石が見える清流に心を癒されるのは、そういう時間を経た安心感にも依っているに違いない。

澄んでいるものはどれも儚(はかな)い。簡単に汚されてしまう、貴重なもの。なるほど、わたしたちの心の鏡のようなものなんだ。それは純粋でありたいと願う精神とも深くつながっているだろう。大事なものを見るには澄んだ目が必要だ。そうだ、そのことをもっと大切にしよう。

「親ガチャ」って嫌な言葉

「ガチャポン」とか「ガチャガチャ」とかいう商品がある。たくさんある中のどれかが買えるが、買う側は「これ」と選ぶことが出来ず、そのうえ出てきた商品の中に何がはいっているのかも、開けてみるまでは分からない。これをもじって、子どもが親を選べないことに引っ掛けた語が、「親ガチャ」らしい。

確かに子どもは親を選べない。「金持ちの子に生まれたかった」「頭のいい両親のもとに生まれたかった」「美男美女の両親だったらよかったのに」という意味で使われるようだが、「こんな親で申し訳ない」と親である自分を卑下した言い方の方が多いらしい。いずれにせよ、きわめて不愉快な語というか、おぞましく、その語を発する本人だけでなく他人をも深く傷つける語である。

ここには明らかに人間の上下、差別意識が染みついてしまっている。髪の色、肌の色だって選べないし、先天的な病気や、それらに罹りやすいかどうかの体質だって選べない。生まれる国だって、生まれる時代だって選べない。なのになぜ「親」なのか。親ですべてが決まるほどダメな社会の方こそ問題にすべきではないか。金持ちでなければ幸福に暮らすことはできないのか。いくら以上お金があれば幸せになれ、いくら以下なら不幸なのか。「こんな親で・・・」という前に、自分を生み育てたその親はどうなのだ。そのまた親はどうなのだ。

こんな、ただひたら人間そのものを侮辱する語は滅多にない。殺人犯にだって、それなりの事情はあるかもしれない、くらいのことは、普通の人間ならたとえ一瞬でも心に浮かぶだろう。なのに、この語には一切そういうものがない。一見コミカルな語にみえて、実は笑いなどどこにもなく、ただただ侮蔑的で、しかもそれが自分自身に向けられているのだから救いようがない。あゝ嫌だ。

高齢者こそパソコン使おうよ

授業でのスライドの1コマ

「野外スケッチの方法」を伝えようと作った、1枚のスライドです。かかった時間は10分ほど。これを大画面のテレビで写して「遠近法ー水平線」の話をしました。

これは、授業や講演などでのプレゼンテーションによく使われる米国アドビ社のパワーポイントというソフトで簡単に作ったものです。実はこの車やアバター(仮想人物)は、ソフトに最初から組み込まれている3D画像サンプルで、大きさの変更はもちろん、後ろ向きでも上からでも下からの目線でも、自由自在に視点を変えることができるようになっています。面倒なテクニックなど一つも必要ないのです。さらに他のソフトと組み合わせれば、画面中の人や車を動かして動画にすることもたぶんできますが、そこまでやると時間がかかり過ぎるので静止画像にしました。

これって、凄いことじゃないですか?少なくとも、ほんの数年前ならかなりのテクニックを勉強しないとできないことだったし、ソフトにも高いお金がかかるものでした。今は「選択」して、ボタンを「押す」だけ。前後左右に3Dを動かすハンドルは、まったく初めての人でもすぐわかるようについていて、それをマウスでクネクネいじると、簡単に「あっちむいてホイ」ができてしまう。一般の生活ではパワーポイントなど必要ないと思いますが、探せば似たような機能のある無料のソフトがいくつもあるはずです。

コンピューターを使う、使わないはもちろんその人の自由ですが、適切に使えば、その人の本来持っている能力をもっと広げられるように、ますます感じます。「(若い人たちのように)コンピューターを使えたら、(自分にも)あんなことができるのになあ」と諦めかけている、じっちゃん、ばっちゃん(わたしを含む)。今のパソコンは昔のそれより優しく(易しく)なってるんですよ。しかも能力は格段に向上しているから、それだけやりたいことも、多く、深くできるようになっています。ちょっと、一緒に頑張ってみましょうよ。ただ、コンピューターもいちおう「道具」ですから、少しは使い方に慣れるまでの時間が必要です。その一秒が惜しいだけの何かがある人はそれを継続。暇はあるけどなあ、という人は、とりあえず、まずはパソコンを膝の上でなでなでしてみませんか。