アジサイ in ブラック

アジサイの葉(CG)

画像が見えにくい・・・。申し訳ないのですが、今のところここまでが精一杯。少しだけ我慢してもらえると、だんだんにうっすらと葉っぱらしきものが(浮かび上がってくるといいのですが)。もともと黒い背景に暗い色のアジサイを描くというコンセプトですが、画面表示すると思ったより暗い。描いている手もとではもちろんずっと明るいのですが。

ここまではまだ仕上がり予定の1割にも達していません、ここに表示したのは葉っぱの部分だけで、花の部分はこれから。薄く、軽く描いているように見えるかもしれませんが、今回は描きこみにこれまでより格段の時間がかかっています。すでに2日目ですが、まだ相当な時間が必要です。手描きの方がずっと早いのですが、あえてCG(コンピュータグラフィックス)で描こうと思っています。

仕上がりまでしばらく時間がかかりそうなので、時々部分的に見せたいと考えています。わたしにとっても、ひとつの挑戦です。

耳のかたち

「木立ベゴニア」(CG) 絵は本文には「馬耳東風」です

わたしにとっての七不思議のひとつは、ヒトの「耳のかたち」。猫や牛や馬、象の耳だとまったく不思議さは無いのに、なぜかヒトの耳のくるくると丸まったかたち、そのかたちへの成り立ち方(進化の合理性)がどうも想像しにくいのだ。

耳を、音(または空気)の波を感じる器官とすれば、耳は魚にもある。もちろん鳥にもある。爬虫類にも昆虫にもあるどころか、ミミズクにさえ?あるという(植物にもあるという学者もいるが、ここでは深追いしない)。魚の耳は、その頭の中にある内耳というところが、ほぼヒトの耳に近い働きをするらしい。他にも側線という、体の両側、鱗の下を頭から尾まで一本の線のようにつながった感覚器官で微妙な水圧の変化などをキャッチするのだが、ここでも人間の声ぐらいは感知できるらしい。ほかにも浮き袋で外部の音を増幅させて、体内の神経を通じて内耳で聞き取る魚もいるというから、魚は何個も耳を持っているともいえる。

硬骨魚類には頭の中に耳石というのがあって、これで水中での姿勢を保っている。余談だが、化石ハンター、岩石ハンターならぬ、耳石ハンターという趣味をもつ人たちが、魚種ごとにかたちの異なるその耳石を収集、そのかたちの美しさを自慢しあうというマニアックな世界もあるらしい。—ヒトの三半規管にも(ヒトだけでなく、おそらくほとんどの動物に)耳石があり、ほぼおなじ機能を持っている。これが剥がれ落ちたりすると、眩暈(めまい)が起きる。メマイしながら泳ぐような魚では、エサを捕ることなど当然できない。「人間に生まれて良かったあ」と「めまい外来」のあることを神に感謝したくなる。

鳥の耳は目立たない。が、羽毛を搔き分けてみると、ヒトの耳とほぼ同じように頭側にぽっかりと穴が開いている。ミミズクというフクロウの仲間は、鳥の中では例外的に耳が外に突き出している。それがミミズクという名の由来になっているのだが、眼よりも音を頼りに獲物の位置やサイズなどを判断する生活様式から考えると、空気抵抗を割り引いてもそれなりの合理性があるだろう。—いずれにせよ、動物の行動様式や生態を考えれば、それらの耳のかたちの成り立ちが、それなりに納得できるような気がする。

なのに、ヒトの耳はどうしてこのようなかたちなのか。勾玉(まがたま)に6というアラビア数字(我々が日々最もお世話になっている数字)を二重に掘り出したようなかたち(漫画の神様、手塚治虫の登場人物の耳)に、どんな合理性があるのだろうか。人物スケッチをするたびに感じる、長年の「不思議」である。

音楽

Apple-習作(CG)

音楽に関するわたしの話題はとても少ない。正直言って、音楽についてはまったくの門外漢である。かといって、嫌いなわけではなく、むしろ大好きであるし、音楽の力によってどれほど励まされ、慰められてきたか数知れない。「あらゆる芸術は音楽を理想とする」という言葉もあるように、わたしもまたそれをひとつの理想だと感じるひとりである。

ただ、わたしの聴き方は、音楽をこよなく愛する人々から見れば、おそらく最低の聴き方であるに違いない。じっと音楽に聴き入るということはほとんどない。ひたすら制作中のBGMであり、いい曲だなとボリュームを上げることはあっても、曲名をメモしたりすることなど滅多にない。あってもリクエストをしたり、曲を検索したりすることもほぼない。NHK-FMを聴くことも少なくないが、BBCのラジオ2か3をかけっぱなしにすることが一番多い。NHK-FMはわたしにとって一種の教養番組であり、教養は深まるだろうとは思うけれど、制作中では意味の分かる言葉が邪魔で仕方がない。その点、英語の音楽チャンネルなら意味は解らないし、喋りも少なく、大助かりだからである。

どんな音楽が好きかというと、なんでも、というしかない。寛容というより、こだわるほどの情熱も知識もないということ。フォークロアがいいと思えば、ロックも好き、という調子。時間的にはロックが一番多いかな。ロックはわたしの制作のリズムに合うだけでなく、精神的エネルギー補給にも役立っている。同じくらいの時間がクラシック。ポップスもジャズもこだわりなく、流れてくれば聴くが、いわゆる演歌はほとんど聴かない。決して嫌いではないが、意味の分かる言葉が耳に入ると制作の邪魔になるからである。だから、お酒を飲んだり、リラックスしているときは演歌でも浪曲でもぜんぜん構わない。日本の民謡は好きだが、○○よいとこ一度はおいで、的な(近代の)歌詞ばっかりでは面白くない。たまに古い音源を採集したものなどを放送されると聴き入ってしまう。人の声は案外好きで、美しい声だけでなくホーミーとか、チベット仏教の勤行のCDなどもたまに聴く。

リコーダーが自分の中ではやや得意だった。フォーク世代のせいで、わたしも人並みにフォークソングを歌い、フォークギターをかき鳴らした。いまでもコードを見れば弾けそうな気がするが、実際やってみたら無理だろう。ハーモニカを吹ける人が羨ましい。学校でも習う機会がなく、今も遠い存在のまま。優しい音が好きというわけでもなく、エレキギターの、あのギュ~ンという激しさも大好きなのだから、はっきり言ってシッチャカメッチャカだ。パーカッションが意外に好きで、昔はパーカッションだけのコンサートに何度か出かけたりしたこともある。弦楽器はどれも好きだが、チェロの渋い音には心が共鳴してしまう。