サボれない―フリーランス

野生動物にとってサボるということは、たぶんぐっと死に近づくことなのに違いない。警戒をサボる、エサ探しをサボる、身体のケアをサボる。どれも死に直結する。サボらなくても捕食者は向こうからやってくる。息を抜く暇がない。

人間は適当にサボることができる(良かった~人間で ^_^)。人間は文明によって、多少はサボっても死なずに済む社会を創ってきた。

「フリーランス」という生き方は、そうした人間社会のなかでは野生的な生き方ということになるだろう。社会という仕組のなかではあるが、多少とも人に頼らない(頼れない)領域を持つ、そんな空間に生きるということ。だからサボれない。「自分だけの自由な時空感」などの”綺麗な表現”につられそうになるが、実は“息を抜く暇のない″、野生動物のような緊張感を常に強いられるという現実を見落としてはならない。

フリーランスになることは確かに一つの選択だが、多くの場合、「そうせざるを得ない」人々だとわたしは強く感じる。ちょっと前の日本では“落伍者”“はみ出し者”あるいは“反抗者”として、時には“排除”の対象者にされかねなかった人々。いまフリーランスが一種カッコ良さげに見えているらしいのは「文化」の力である。はみ出し者も一緒に生きていける時代がずっと続いて欲しい、それを持続する力が欲しい。一方で寛容性のない社会も身近に広がり、それに気づかない人も増えていそうなのが不気味である。