整理整頓

Appleー背景の練習(CG)

「整理整頓」・・・ガキの頃から苦手だね。つーか、実は意味もよくわかんねえんだよね。整「理」はともかく、整頓の「頓」ってなんだよ?おめーら、知ってる?—あ、そう。あなたたち(意外に)インテリなんだね。—ふっと出た「インテリ」って、少なくとも60歳以上の人しか使わない語感―万年ガキだと言われたオラも、現実には歳をとったんだね。

オラたちが小学生の頃は「児童会」ってのがあってよ。6年生の時、なぜだかオラが会長にされちまっただよ。ヤンだぁ、どうスッペ・・・と思う間もなく、オラの本心ではぜんぜん興味のねえことをどんどんやることになって、会長っつーことでオラが先頭に立たされちゃうんだよね。嫌だったな—「保健委員会」とか女子の多い委員会があって、「ハンカチをちゃんと持ち歩きましょう」なんて、今でいうキャンペーンっつーのなんかやった。手も洗わねえでおにぎりなんか食ってるオラがハンカチなんて—なんだか急に女の子になったような、妙な恥ずかしさがあって、ずーっと気持ち悪かったのを覚えている。他にもいろいろな委員会があって、薄暗くなるまで意味のないことをしゃべくったあげく、「ケツを取ってください」とか言われ、「ケツってお尻のことかな」と思ってるうちにケツを取られ、会長なのに多くの場合少数派という変なオラだった。

オラはさかな(魚)と動物と絵以外のほとんどに興味のない子どもだった。ウサギや狸をわなで獲れば母方のジジのところへ持っていく。ジジの傍でその解体を見ているのはとても楽しい時間だった。魚を釣れば自分で捌いて家族のおかずにしたり、母の好物の蟹を獲りに早起きして磯に出かけたり、蟹釣りに夢中になったり、賢い狐と3年間ずっと知恵比べをしたり、今から考えると、童話の世界を実体験したようなものだった。いつも一人でそんなことしていたから、なんでも多数決というやり方には今もしっくりなじまない。マタギの家に行き、熊追いの猟犬や鉄砲を見せてもらった記憶も—大脱線。整理整頓の話だった。

魚も猟の獲物も、絵も?—だいたい手元には無くなってしまうものばかりだから、そもそも整理整頓の必要がなかった。せいぜいスパッツをかける釘、ワナ用の針金や竿・針・仕掛けなどを置く場所、スキーや橇を直ぐに出せる場所に置く、だけ。それ以外の整理整頓の習慣が無かったのが、わたしの整理整頓下手の原因ではないか(今回言いたかったことはココだけ)ということ(余談だが、こう書いてみると、学校以外で、つまり家では全く勉強しなかった(宿題も)んだなあと思う—不思議なことにわたしの弟は実に「整理整頓家」(であった)。それは性格による?―と長い間思っていた。父(すでに故人)の病気以来、なるべく毎年実家を訪ねているが、だんだんに弟の整理整頓の「いい加減さ」が見えてきた。やはりね―なぜかちょっと嬉しい。ついでにいうと、わたしの息子もあまり整理整頓が得意ではなさそうだ。妻は整頓はするが「整理」のまったくできない人。これは問題がある―わたしは「整理」も「整頓」もできない人だから問題はない。

坦々と

アジサイ(CGスケッチ)

「坦々としている」ひとはわたしにとっては「カッコいい」。ごくごく小さい頃から、わたしは自分がパニックに弱い人間だと自覚していた。そしてそれは数十年たった今も変わっていない。

人間の世界では、わたしは間違いなく「臆病なひと」。勇気なんて持った記憶はないし、団体で行動するにしても3列目がせいぜいだ。先頭で旗を振る人はもちろん格好いいが、それよりカッコいいと思えるのは旗を持たずに先頭に立つ人であった。

わたしにとってのリーダーシップは、つねに先頭にあり、責任を一身に引き受けてなお「坦々としている」ことだが、それはわたしとは正反対。そんな人にあこがれるのは当然だとしても、あこがれるだけで、けっしてそういう人になりたいと思わないのが「臆病」ということだろう。子どもの頃のわたしを、母は「怖がり」だと笑っていた。恥ずかしかったが事実だからしょうがないと、あえて反論などした記憶もない。

年を取ったせいか、「坦々と」の意味がリーダーシップとは無関係になり、文字通りの「坦々」に変わってきた。「坦々と生きる」ことが実は意外に難しいと感じてきたからだろうか。最近のわたしは以前より少し(事前に)準備するようになった。いや、そうしないと何もできなくなってきたのである。以前はすべてが「行き当たりばったり」。それを若さと間違えてくれた人もあるが、実態は、未来を想像し、それに備え、準備する感覚と能力がなかっただけだった。振り返ってみると、これまで何とか無事に来られたのは単なる幸運ではなかったかとさえ思える。転変の激しい現代では、そんな偶然性だけであらゆることを乗り越えていくのは無理だと、やっと多くの人の通った道をわたしも踏んだからなのかもしれない。

傲慢 — 2

アジサイ(CGスケッチ)

(前回の「傲慢」より続く)
「自分は正直で謙虚だ」と思うことがすでに傲慢だって?じゃあ、自分をことさら卑下しない限り、みんな傲慢だということになっちまうじゃねいか!って、怒りのあまり語尾がもつれちゃったりする気持ちはわかるが、でも、そうなんだと言おう。

自分は傲慢ではないと思うことが、すでに傲慢だ、と言い換えてもおこう。同じように「私は謙虚だ」と思う人は謙虚ではなく、やはり傲慢なのだと言い換えておく。これはただの言葉遊びではなく、むしろ本当の意味で危険な思想だといえるかもしれないから。

どういうことか。—多くの場合、わたしたちは自分のことを「ごく普通の」「常識的で」「特に優れたところもないが(多くのばあい謙遜である)」「特に悪い心を持っているわけでもない」人間だと考えている―だから。だから危険なのである。正直で謙虚で普通で常識的でほとんど何の取り柄もないと公言する善人だからこそ、危険だというのである。それが「普通」である以上、「それ以外」はある種の異質な存在であり、はっきりした輪郭のない「普通」の人が、いつのまにか、ほんの少し自分と違うだけの他人を排除する側に立ってしまっていることに気がつかない。自分自身が「普通の」ど真ん中であり、他が偏っているといつの間にか錯覚してしまう。

「正直で謙虚で・・・善人」なんていないのである。少なくともわたしはそうではないし、たぶんあなたも実はそうではない。時には都合のいい嘘をつく、または都合の悪い事実を隠し、人には嫉妬し、ちょっと得意なところを何となく見せびらかし、取り柄がないと口では言いながら「少なくともお前よりはマシだぞ」と目の前の人を(心の中で)見下し、嫌な奴はみな死んでしまえなどと考えている、それがわたしであり、ひょっとするとあなたも、ではないだろうか。

会食自粛を人には強いておきながら、自分たちは悪びれもせずに会食した政治家たちがいる。「政治家は人に会うのが仕事」とうそぶいたが、こういうのを典型的な傲慢という。けれど、誰が見ても傲慢であるだけに、気分は悪いが実害は少ない。反面教師の好例にもなるし、選挙で落とすこともできる。だが、「普通の人」の「大多数」は誰にも止められない。ひとりひとりが、ある意味では全員少しずつ異質な存在であり、けっして正直や謙虚なだけではない、裏も表もある人間なのだと認識しない限り、誰にも止めることはできない。その怖さをわたしは日々ひしひしと感じる。