俳句

西洋シャクナゲ

俳句を教わり始めてもう十年以上になる。一時は少し熱を上げ、俳人たちの句集を片手に、独りよがりのさまざまな工夫を凝らした時期もあった。忙しいせいもあるが、最近はなんだかその熱も冷めてきた感じ、である。

俳句愛好者の多くはNHKや大手新聞社などメディアの俳句欄に投稿したり、毎月それらをまとめた雑誌を購入したり、いわゆる俳句結社に入会し、句会などで研鑽を積む。結社への入会についてはわたしも少しその気があって、いくつかの結社の成り立ちや師系、句風などを調べたことがある。結局そのどれもやらないのだが、それは「俳句の世界のこじんまりした約束ごと」が、どうも自分の性格にも志向性にも合わない、ということに尽きる。(*たとえば金子兜太の俳句世界が「こじんまり」なのかどうかに異論はあると思うけれど)

俳句の世界の約束事とは何かといえば、「波風を立てない(調和を破らない)こと」だとわたしは感じてきた。花といえば桜のことであり、桜ならば清楚、華やかに決まっていて、散り際のはかなさ、美しさ、潔さという定型のイメージに語を収斂させていく。俳句はその収斂のプロセスでの語句の取り合わせの巧拙、つまり極めてテクニカルな遊び、きっちりゴールの枠寸法の決まった、言葉のゲームなのである。17文字のうち5文字はほぼ「季語」で消費されるから、残り12文字しかない。この12文字で(約束された範囲内の)イメージを描くには「有り合わせ」の「貼り合わせ」にならざるを得ない。季語が「貼り合わせ」の強力接着剤として働き、俳句はこの接着剤にもたれかかるようにして作られていく。

ひとことで言えば、わたしはこの「協調ゲームに」飽きてきたのである。絵画の世界はゲームではない。どこまでも「自分と他人」の違いを意識し、他人(世界)の前に自分一人を「勇気を奮い立たせて」引っ張り出さなければならない、逃げることが許されない世界である。一切の約束事はそこにはない。テクニックなど、そこでは単なるひとつの要素に過ぎず、時には邪魔でさえある。

俳句は「共感」が死命である、といってもいい。俳句以外のすべての芸術も、実は共感を抜きにしては存在し得ないのだが、だからといって共感を前提的に求めてはいない。けれど、共感を求めない俳句ならどうだろう。それはもう俳句とは呼ばれないかもしれないが、短詩型のつぶやきとしての存在ならあり得るだろうか。わたしにとって、俳句とはそのようなものになりつつある。

大学構内をスケッチ中 2021/4/03

宮本常一(つねいち)著「忘れられた日本人」を三十数年ぶりに読みかえした。宮本常一は民俗学者で、柳田国男とはまた別の、人によっては「宮本民俗学」という言い方をする、「旅」をしながら研究資料を自分の足で掘り出していく独自の民俗学を開いた人である。

読んでいると、モノの環境は変わっても日本人の生きざまのようなものが今も底流でつながっているのを感じる。そこには昨今特に声高な、「愛国心」とか「日本人らしさ」などと一言では表し得ない、複雑で、ある意味かえって現代的ともいえる心情がある。名著だ、と思う。民俗学などに興味がない人にもぜひ読まれるべき本だと思う。

彼は病弱であったが、一生を旅し続け、人々の間に座り込んで彼らの物語を聞き続け、それを記録し続けた。ひなびた農家に泊めてもらい、時には乞食の話を聞きにわざわざ橋の下まで出かけている(その記録自体も名文だ)。現代の都会人が「放浪してきた」とカッコよく言うのと根本的に違う泥臭い学者魂と、彼がその父や祖父から受けついだ、人々の暮らしと心への共感が彼の旅を支え続けたのだろう。

春になったが、コロナは浅はかなリーダーどもを振り回し、もうひと暴れも二暴れもする勢い。GO TOなどと能天気なキャンペーンに乗るほどバカでない人は、むしろ折角の自粛だ、本の旅もいいではないか。