「5月」を傷つけるやつ

今日は5月11日。快晴、暑い一日だった。今日もオンライン授業のための動画編集。前にも書いたが、オンライン授業というのは、カメラとマイクを前に置いて、普段通りを、(学生が全員眠っていると仮定して)「無人授業」としてやるのだと、多くの人は考えている。テレビでは「そんな」オンラインばかり写すから、そう思う人が大多数なのは仕方ない。

実際は、そういう、オンラインに都合のいい「講義授業」ばかりではないはずだ。例えば、目の見えない人に点字を教える講義をオンライン授業でどうやるのか?私には簡単には想像できない。もう少し一般的にしても、看護学生に「注射」の練習(するのかどうか、実際は知らないが)はどうやってオンラインにできるのか?ともかく政治家や評論家のように、なんでもオンラインでできそうに言うのは無知だし、そう思うのは幻想だ、ということ。どんな物事だって、一歩入ってみると、ことはそう単純ではない。

とはいっても、一歩家の外へ出れば、五月晴れ(さつきばれ)だろうと、五月雨(さみだれ)だろうと、やはり五月の自然があふれている。こんなときは登山がいいのではないか。「3密」は無いし、気分転換にも筋トレにもなるし、と思ったら「やめてくれ」だそうだ。「なんで?山ではほぼ誰にも会わないぜ?」と思ったら、山小屋はもちろん、テントでも設営区域が混み合うのだ、という。ネットで見ると、テントとテントがひしめき合っている「ように見える写真」が載っている。実際にテントを張ったことがある人なら、写真の印象と実際との間には、ソーシャル・ディスタント以上の距離があることを知っているはずだ。

本物の「山男」たちが何も言わないのに、私ごときが「登山がいい」などというのは控えるが、どこかで、「実態を知らない人たちが、さもそれが正しく、正義であるかのように言ってるぞ」とは思う。「自粛警察」なる新語も幅を利かせているそうな。何ですか、その「正義感」。本当に正義だと思うなら、「こそこそ」と張り紙したりせず、堂々と名前を名乗って「公的に抗議」したらどうですか。渋谷のハチ公もマスクさせれられたそうだ。これを、何の批判性もなくニュースで報道するNHKも(あるいはもっと罪の深い)「自粛警察」(行為)だと私は思う。(コロナ時でない)普段なら、これは「落書き」と同じ行為だと(当のNHK自身が)非難するはずだろうから。

バカは死んでも治らない

コロナに蹂躙された4月の1ヶ月、私の生活は一変した。社会人になって、初めて「収入ゼロ」を体験した。最初は何にも感じなかった。「教室、休みになっちゃった。今までできなかったことを、この機会にできるようにしよう」的な、「チャンス」的な気分も無くはなかった。この機会に、表現の世界を少しだけ広げられるかも、と楽観的に思っていた。

今は全然違う。世界は明らかに変わった。何年も前から、友人と「ごく近い将来、日本はドラスティックに変わらざるを得なくなる。その時に(個人として)何ができるか、それが大事だよね」などと、お酒を飲みながらの、定番の話題だった。それが「今」来たのだと思う。多くの人の予想通りに。

コロナは単なるきっかけだ。(社会現象としては)近いうちに起こるべきだったことが、いま起こっている。それが「戦争」でなく、「コロナ」だったぶん、まだラッキーだと思う。これがもし戦争だったら、こんなもので済むはずはない。フランスのマクロン大統領、ドイツのメルケル首相共に「コロナに対する戦争状態」を口にしたのも、決して的外れではない。コロナ戦争後に、勝ち負けが現れる、という危機感の表れと取るべきだ。日本のような竹槍アタマでは勝てそうにないな。

5月も、ほぼ無収入に近くなった。いつまで続くか判らないが、おそらくそれほど長くはない。終息など到底できないが、国民の持久力が続かないはずだし、変化だけが商売ネタのマスコミが騒ぎ始めるはずだし、経済界が、コロナなどより会社が大事だと本音を吐き始めるはずだし、政府の財布の底が見えてくるはずだし、何より日本人特有の健忘症が蠢き始めるはずだから。そのあとに来る、二度目のコロナの時は、もう打つ手は何もないよ。政府が「二枚のマスク」の代わりに配るのは、安楽死用の注射だけ、かな。

数字の薄い「自粛要請」

「非常事態宣言」が1ヶ月近く延びて、5月末までとなった。4日の安倍首相の説明では、前回までの自粛効果があったのかなかったのか、そしてこの延長でどこまでが期待でき、そのそれぞれの段階に応じて、どういう対策を考えているのか、などが全然見えてこなかった。補正予算も、脳天気な、コロナが終わった後の観光刺激策などに、喫緊の医療費をカバーするお金の数倍〜数十倍のお金を計上するなど、目の前のことが本当に見えているのか疑わしい政策判断だ。

460億円以上という、莫大な予算を使っての「各世帯に布マスク2枚」。3人家族はどうするの?という話は早くからあったが、「とにかく何かやりゃあいいんでしょ」と言わんばかりの不毛な愚策。どれだけの国民が望んだか知らないが、10万円という金額算定の根拠と、その政策的意味との整合性の無さ。政府もバカだが、それを歓迎する国民もマスコミもバカだというしかない。金額云々ではなく、論理で考えられないという、脳の貧困の方がコロナよりずっと深刻だ。

コロナが明らかにしているのは、医療体制の脆弱だとか、そういう問題を越えて、いかに私たちがものを考えない国民か、ということなのではないか。「非常事態宣言が延長になりました」、ああそうですか、欲しがりません、コロナに勝つまでは。一億玉砕火の玉だ。5月5日現在東京都の感染者数4654人、人口13,951,781人(2020/3/13現在)。単純に計算して、感染率0.000333。ざっといえば1万人に3人(埼玉県は1万人に1人)。しかも退院した人も入れて、だ。東京都の死者数141人(5/5現在)を、やはり人口で割ってみると10万人に1人になる。ちなみに全国で最も交通事故死者の率が小さいのが東京都だが、2019年では約10万人に1人。自殺死亡率は15.7 (人口10万人あたり)と比べて、説得力ある数字なのか。今年度の自殺者は確実に増えるに違いない。

その一人に自分がなったら、それは大変だ。PCR検査をしないからだ、警戒したからその数字で済んでいる、などという言い方にも、ほんの少しだが一理はある。でも、それでも2ヶ月も半経済封鎖しなくてはならないという数字なのか?痛みを感じているのは、外出自粛を声高に言う人々とは別な人々なのではないか?感染予防そのものがいけないなどというのではない。ただ、このやり方そのものが「一世帯2枚」のマスクに象徴されているのではないか、と思う。