誰にもあって、一つも同じでない

不思議なことに、母の死は「死」ではなく、単に苦しみのない安らぎであり、体は「死体」ではなく、物でも偶像でもない、ある意味で中途半端な「何か」だと私は感じていた。

死亡診断書を貰い、真夜中の病院から母を乗せた車で自宅に向かう間、私は(きっと興奮していたせいもあると思うが)特に悲しいとは思わなかった。むしろ、吸入マスク、チューブや各種の点滴、医師・看護師などの「介在者(物)」なしの、やっとストレートな「肉親」に戻れたような気分で、毛布にくるまれた母に話しかけた。「家に帰るよ」

「おっぱい」と血は、基本的に同じものだ。女性なら誰でも知っている医学的事実が、男性には案外知られていない。でも、それは感覚として哺乳類全てに共通知覚されていると私は感じる。私たち(野生動物も含め)はみな、それぞれの「母の血」を吸って育ってきたのだ。

火葬の直前まで母の頬を何十回も触った。冷たいというより、気持ちがいい(葬祭業者の「冷却器」のお陰ですが)。そして骨を拾った。束の間の、擬似的な介護の真似ごと。私が吸ったはずの母の萎びた乳首、見られることを最初は嫌がった便の始末。私の幼、少年時代の全てを見てくれた、いくつかの骨を持ち帰った。

投稿者:

Takashi

Takashi の個人ブログ。絵のことだけでなく、日々思うこと、感じることを、思いつくままに書いています。このブログは3代目。はじめからだと20年を越えます。 2023年1月1日から、とりあえず奇数日に書くことだけ決めました。今後の方向性その他のことはぽつぽつ考えて行くつもりです。

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