「日本の歴史」もそろそろラストページ

「飛ぶ男」(制作中)

8/16、雨。気温18° Tシャツ1枚では寒い。昨日から断続的に、時折大きな音を立てて降り続く。お墓も掃除し、実家の仏壇の扉を閉めた。お盆は終わり。あとは絵を描くだけだ。

終戦特集のTVで、いくつかの番組を見た。NHKの「ノモンハン事変」、戦争孤児にスポットを当てた「駅の子」。記事では戦争トラウマを扱ったものを読んだ。

常に繰り返されるのは「無責任」「不誠実」そして「現実より、幹部間の個人的人間関係優先」あるいは「組織優先のフリをした、卑しい利益主義」。「日本という国」の「意思決定」の曖昧さ、いい加減さだ。今もどこか変わっただろうか?

一言でその理由をいえば、教育の欠如だ。「日本の教育水準高いのでは?」と自画自賛的に思っている人は少なくない。確かに識字率などは高い(もっと低い所と比べてるだけだが)。けれど、論理的に考え、説明でき、行動できる能力は、驚くほど低い。大学の先生クラスでも論理がメチャクチャな人は幾らでもいる。大学の先生は、単なる専門家ではダメなのだということが、当の先生自体解らない。そういう連中に教わってくるのだから、大臣、国会議員もあの程度だし、そういう連中を選ぶ国民になるわけだ。頭のいい連中が、国民を「愚民化」してきたという説もあるが、論理的に考えれば、馬鹿げた説だということは簡単に理解できるはず。

「次の戦争」が起これば、「そのあとの日本」は平和になるだろう。日本という国は、「過去」としてしか存在しなくなるからだ。愚かな国は無くなることこそふさわしい。