絵画の原点 2

アメリカ芙蓉

「自由に描く」ということと、「好きなように描く」のとは同じことだと感じる人もいるだろうが、私の感覚とはかなり異なる。

私にとって、自由に描く、とは「自在」でもある。勝手気ままに描いても、なおそこに自分がいる=自在でなければならない。「自由」と「自在」のバランスが要る。時には高度な技術も、知識も必要だ。「好きなように」にはそのような制約も緊張も感じない。けれど、ある境地に達したら、そんな区別など笑い草に過ぎないのかも、とも思う。

もう一ついえば、(これは私自身の偏屈かも知れないが)「好きなように」には、決して画家自身のものだけでない、他人の好み、ことばを変えれば迎合的なものを含むようにも感じられる。

「画家」は、和洋を問わずひとつの「職能」集団としての長い歴史を持っている。そこでは個人的才能など、時には邪魔でさえあった。先に「迎合的」と書いたが、他人の、どのような趣味にも応えられることこそ、画家としての実力であった。アマチュアというものが存在しない時代では、それは当然というより、必然であったろう。そうした中にも、良いものは良く、自由自在に振舞える才能があったことは、過去の膨大な名作群が証明済みである。

それに照らしてみれば、私のいわば「自由論」は、無能なるがゆえの、負け犬の遠吠えということになるだろうか。(この項まだ続きます)

この暑さを記録せよ

ゴムの木

この暑さは異常だ。だが、これが「新たな平常」への始まりかも知れない。最低気温30°の北半球。北極海がリゾートになる地球の始まり。北半球の氷の重さが無くなり、地軸の傾きがほんの少し変わり、軌道もそれに連れて微妙に変わる。

太陽が膨張する前に地球自体が太陽に飛び込むか、加速して太陽系から飛び出してしまうかも知れない。それは数億年あとのことだが、生命体にとっての異常気象としては、はるかに早く現れる。台風は365日、風速数百メートル/秒の風で、現在のビルなど全て地上から地下に潜っている。地表は厚さ10mもの、ごついコケ類に覆われ、背の低い三角形の、ガラスのピラミッドの様な建築だけがその間から顔を出している。そんな地球の平常への「異常の始まり」。誰もがそれぞれの能力、感覚で記録するのが良い。

秩父を除く埼玉県平野部では、最低気温が30°を越えるようになってきた。最高気温40°より、そちらの方が本当は危険です。これが続けば「夜の熱中症死」が増える。睡眠薬を使用の方、ご用心。知らずに安楽死してしまうかも知れません。

ボランティア

緑の手の中の男    ( 習作)

西日本豪雨災害での、ボランティアのニュースをラジオで毎日聞く。ボランティアの方も熱中症になったり、豪雨の去った後の猛暑とは神も酷い。被災地の方々はそれに加えて喪失感、体力、気力の限界に近い、四重苦、 五重苦に喘いでいるに違いない。未だに行方不明のままの人もいる。

けれど、地元や連携する自治体、ボランティアなどの手で、インフラや市民生活への秩序が急速に整いつつあると聞くのは嬉しい。

「情けは人の為ならず」いつかは自分たちも、こうしたボランティアの世話になることもある得る。だから、ではない、自然な心の為せる行動なのだろう。けれど、誰でもボランティアに行けるわけでもない。人は繋がっている。自分自身の健康を守ることも、より必要とする人にボランティアの助けを振り向ける力になっている。若い人は、いま一生懸命勉強することも、直接のボランティアに劣らない、大きな意味を持つ日が必ず来る。