絵画の原点 2

アメリカ芙蓉

「自由に描く」ということと、「好きなように描く」のとは同じことだと感じる人もいるだろうが、私の感覚とはかなり異なる。

私にとって、自由に描く、とは「自在」でもある。勝手気ままに描いても、なおそこに自分がいる=自在でなければならない。「自由」と「自在」のバランスが要る。時には高度な技術も、知識も必要だ。「好きなように」にはそのような制約も緊張も感じない。けれど、ある境地に達したら、そんな区別など笑い草に過ぎないのかも、とも思う。

もう一ついえば、(これは私自身の偏屈かも知れないが)「好きなように」には、決して画家自身のものだけでない、他人の好み、ことばを変えれば迎合的なものを含むようにも感じられる。

「画家」は、和洋を問わずひとつの「職能」集団としての長い歴史を持っている。そこでは個人的才能など、時には邪魔でさえあった。先に「迎合的」と書いたが、他人の、どのような趣味にも応えられることこそ、画家としての実力であった。アマチュアというものが存在しない時代では、それは当然というより、必然であったろう。そうした中にも、良いものは良く、自由自在に振舞える才能があったことは、過去の膨大な名作群が証明済みである。

それに照らしてみれば、私のいわば「自由論」は、無能なるがゆえの、負け犬の遠吠えということになるだろうか。(この項まだ続きます)

投稿者:

Takashi

Takashi の個人ブログ。絵のことだけでなく、日々思うこと、感じることを、思いつくままに書いています。このブログは3代目。はじめからだと20年を越えます。 2023年1月1日から、とりあえず奇数日に書くことだけ決めました。今後の方向性その他のことはぽつぽつ考えて行くつもりです。

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