昆虫・油彩・大理石

    「蝶など」           油彩・大理石

昨日(3/25)久しぶりに上野へ。桜は満開。花の下では中国からの旅行者たちが、かわるがわる枝を自分の顔のそばに引っ張り込んで写真を撮っていた。暑いくらいの陽気で、大勢の人で賑わっていた。

ブリューゲル展(東京都美術館)に入った。久しぶりのクラシック展だったが、まあこんなもんか、という感じ。しかし、出口近くの2点には少し驚いた。写真はそのうちの1点。2点とも6号ほどの小品だが、油彩で昆虫を驚くほど細い筆で描いてある。作者はヤン・ファン・ケッセル、1659年作。磨かれた大理石の上に描かれている。

そうだ、油彩は石の上にも描けるんだったなあ、と改めて思い出した。しかし、このような場合、油彩につきものの「油のヤケ」が全然見られない。ついさっき描かれたかようにフレッシュ。しかもひたすら「昆虫」図鑑のような描き方が、いっそう現代的であるように感じられた。

道すがら西洋美術館に立ち寄り、「プラド美術館展」も見る。ヴェラスケスのデッサン力・構想力が他を圧倒している、の企画どおり。けれど、私的にはそれらの展覧会を、ずっと立って見ていられたことの方が嬉しかった。

不または非・「晴明」

「Doll」     watercolor

なんだかイラついている。何かハッキリした不満というより、あらゆることに清々しい明朗さがない、という感じ。今頃の天候などをさす俳句の季語に「晴明」というのがある。晴れやかさと爽やかさが混じったような気分・天候のことだが、どうもそれとは逆とまでは言わないが、「不または非・晴明」という気分なのである。

「感謝」という言葉が、急激に嫌な言葉になってきた。冬季オリンピック、パラリンピックが先頃行われた。昨日から春の選抜高校野球も始まった。ここでも「感謝」「感謝」の嵐。この言葉を口にしないとすかさずどこからかクレームがつく。曰く「あなたの今日あるのはあなた自身だけの力ではない。周囲の力添えがあってのこと。その感謝の気持を持たない人は大人ではない」。

だから、実際に大人ではない小学生、はては幼稚園児まで「皆さんのお陰でーちゅ」と「練習」させられる。そのようなクレームからの過剰回避である。

ごく普通のことをしたのに、「思いがけなく」ありがとうと言われるときの「晴明さ」と、それは似て非なるものだ。「感謝」の言葉は求めるものではなく、自発的なものであるはずだ。それが単なる「形式」になり、形式でよいとするそのような神経のあり様が、どうやらイライラの中身のような気がしてきた。

ホーキング博士に足を踏まれる

「Doll」 watercolor

3/14 理論物理学者のホーキング博士が亡くなったというニュースが世界を駆けめぐった。76歳。50年以上にわたり、ケンブリッジ大学の現職教授で、目以外ほとんど自分では動かせないにも、関わらず、世界のレジェンドとして、物理学の第一線にあり続けた。

さすがと思ったのは、3/14が「円周率の日」(日本では数学の日)でもあること。その日に亡くなるなんて、どこまでレジェンドなんだろうか。円周率とは例の3.14159216…のあれ。何桁まで暗記したかがギネスバックに載るほどポピュラーな「数字」。いろんな暗記法が各国でも工夫されていて、英語でも例えば Sir, I send a rhyme … (文字の数を数える)等、100桁くらいまでなら誰でも暗記できるのだそうだ(その気はないが)。

「ホーキング博士に足を踏まれたことがある」というのが、その世界では自慢なのだそうだ。面白そうな話を聞きつけると、向こうからホーキング博士がやってくる。そしてつい彼が近寄り過ぎて、その車椅子に踏まれてしまう、それが自慢だというのである。真偽を問うてはいけない。いい話だと思う人は、きっと楽しい人生を送れると思う。