絵画の原点 2

アメリカ芙蓉

「自由に描く」ということと、「好きなように描く」のとは同じことだと感じる人もいるだろうが、私の感覚とはかなり異なる。

私にとって、自由に描く、とは「自在」でもある。勝手気ままに描いても、なおそこに自分がいる=自在でなければならない。「自由」と「自在」のバランスが要る。時には高度な技術も、知識も必要だ。「好きなように」にはそのような制約も緊張も感じない。けれど、ある境地に達したら、そんな区別など笑い草に過ぎないのかも、とも思う。

もう一ついえば、(これは私自身の偏屈かも知れないが)「好きなように」には、決して画家自身のものだけでない、他人の好み、ことばを変えれば迎合的なものを含むようにも感じられる。

「画家」は、和洋を問わずひとつの「職能」集団としての長い歴史を持っている。そこでは個人的才能など、時には邪魔でさえあった。先に「迎合的」と書いたが、他人の、どのような趣味にも応えられることこそ、画家としての実力であった。アマチュアというものが存在しない時代では、それは当然というより、必然であったろう。そうした中にも、良いものは良く、自由自在に振舞える才能があったことは、過去の膨大な名作群が証明済みである。

それに照らしてみれば、私のいわば「自由論」は、無能なるがゆえの、負け犬の遠吠えということになるだろうか。(この項まだ続きます)

ボランティア

緑の手の中の男    ( 習作)

西日本豪雨災害での、ボランティアのニュースをラジオで毎日聞く。ボランティアの方も熱中症になったり、豪雨の去った後の猛暑とは神も酷い。被災地の方々はそれに加えて喪失感、体力、気力の限界に近い、四重苦、 五重苦に喘いでいるに違いない。未だに行方不明のままの人もいる。

けれど、地元や連携する自治体、ボランティアなどの手で、インフラや市民生活への秩序が急速に整いつつあると聞くのは嬉しい。

「情けは人の為ならず」いつかは自分たちも、こうしたボランティアの世話になることもある得る。だから、ではない、自然な心の為せる行動なのだろう。けれど、誰でもボランティアに行けるわけでもない。人は繋がっている。自分自身の健康を守ることも、より必要とする人にボランティアの助けを振り向ける力になっている。若い人は、いま一生懸命勉強することも、直接のボランティアに劣らない、大きな意味を持つ日が必ず来る。

夢と絵のあいだ

習作 M8

夢うつつに絵のことを考えている。

「色彩は迷路だ」という声がする。同時に数枚の絵がスルスルと目の前に現れて実例を示す。なるほどそうか。今度は色のない、素描のような絵だけが現れ、「でも、色があると楽しい」という。それもそうだ。

いつのまにか夢は終わり、現実(まだ横になったままだが)の作品のことに意識は移っている。夢の中の絵は記憶の中にはっきりと残っている。