情報

「ワイン瓶とパン」水彩  ―ここは井戸のど真ん中だ―

関東地方は、今日は東京・大手町と埼玉県熊谷市以外は猛暑日ではなかったようですが、今日もほぼそれに近い気温でした。それでも立秋を過ぎたという気持のせいか、なんとなく夜の気温が過ごしやすくなった(ような)気がします(最低気温24℃なんですけど)。こういう気象情報は、すべての事象に目に見えて関係するので、誰にとっても価値のある情報だといえるでしょう(こじつけ感ありありですね(>_<))。

情報がない、というのも一つの情報であるように、すべての物は情報化します。ただし一般論として。それは誰かにとっては(きっと)意味があるに違いない、というほどの意味です。逆に言えば「自分にとって価値の無いものは情報ではない」ということの裏返しだとも言えるでしょう。
 漁師や釣り人にとって、潮のあるなしは大きな情報ですが、農家の人にとってはほぼ無価値でしょうし、マスクをしなくなって、口紅が急に売れ出したとかは女性にとって興味ある情報でも、おじさん、おじいさんにとっては“意外にも” ということはあまりなさそうだ、という風に。

知らなければ知らないままで済んだのに、知ったばかりに大きな負担になる情報もあれば、知ることで大きなアドバンテージになる情報もあるでしょう。戦争(競争でも)では相手が欲しそうな情報を、魚釣りの針のように相手に投げ与えるフェイク情報もばらまかれて、油断ができません。情報を嗅ぎ分けるための情報も、それを知るための情報も、情報の山の中から選びださなくてはなりません。アナログな忍耐力もきっと必要な能力です。

「井の中の蛙」という言葉は、自分にだんだんよく当てはまるようになってきた、と感じます。知らなければ知らないままでも不都合を感じなくなってきた、という意味です。無風の「井の中」がだんだん居心地良くなってきたのです。井戸から出て、自分に必要な情報をさえ集めるのがだんだん億劫になってきています。自然に落ちてくる情報だけで満足できるようになってきたのですね。そう遠くないうちに、(幸福なことに)いつしかそこが天国だと信じたまま、土に埋もれていくのだろうと思います。

大本営発表

08/04にアップロードしました。ご覧ください

「マイナーな気分になる情報は出来るだけ少なく、アップする情報は可能な限りオーバーに」という情報発信の仕方を「大本営発表」と、太平洋戦争での日本軍の報道への皮肉を込めて呼ぶようです。ウクライナ戦争でのロシア政府、軍関係からの様々な報道を、日本はじめいわゆる西側の人々はそう呼んで嘲笑っているようです。

けれど、これは当時の日本軍だけでなく、世界中どこの国でも、今でもやっています(おそらくこれからも)。スポーツの世界でも政治の世界でも、およそ「対立」のあるところなら、時に応じてリップサービスや中傷にかたち変えたりしながら、あらゆる場所、次元で起こることがむしろ普通だと考えておくことが必要だと思います。

わたしたちも、気分が良くない時はできるだけ嫌なことは聞きたくないものです。たとえそれが事実であるとしても悪いことが3つも4つも重なることは避けたいし、気分転換のために耳障りの良いニュースだけ選択したり、あえて笑いの要素を探したりします。それが自然な気持であり、逆に言えばそこに付け込まれる“油断” が生まれます。それが「大本営発表」の本質です。

YouTubeを作っていても、作る労力と実際の視聴数とはまったく比例しません。そして、人にそのことを伝えるときはうまくいった時より、失敗の話の方をつい選びがちです。その方が聞く方が上位にあるという心理が働いて、気分よく聞き流せると思うからですが、これもちいさな“逆” 「大本営発表」の類でしょう。大事なニュースなのに知らされなかったり、重いからと、ニュースそのものに耳を塞いでくれたほうが都合いい人たちも居ないわけではありません。程度問題ですが、どんな情報にも「大本営発表かも」のチェックマークをつけておく必要があると、「終戦の日」が近づく今日、考えています。明日は広島原爆の日。

花はどこへ行った

「海辺にて」水彩(制作中)

BBC記者のウクライナ戦争最前線、ウクライナ側からの現地取材のワンシーン。兵士の傍に行きつくまで、ほんの少しの時間ですが、周囲の風景もカメラの揺れの中、視界にはいってきます。腰くらいの高さでしょうか、わりに背の高い草が、畑の中の小さな道のわきにずっと生えていて、そこに白い花がたくさん咲いて微風にゆらゆら揺れています。その花の下で、兵士は腹這いになって銃を連射しているのです。映像を見た瞬間、思わず「花はどこへ行った」のメロディーを思い出しました。

「花はどこへ行った」は、ベトナム戦争の反戦歌として、当時は世界中の若者たちに歌われました。この曲を作ったピート・シーガーは、ロシアの作家ショーロホフの「静かなドン」の一節に出てくる、ウクライナの民謡に触発されたのだそうです。両国に深く関わるこの歌こそ、いまロシアとウクライナの若者たちに最も歌って欲しい曲かもしれません。
 この曲は、戦争の当事者であるアメリカの、若い人たちのあいだであっという間に広まり、その広がりの中でアメリカの「敗戦」として20年にわたるベトナム戦争は終結したのでした。

アメリカと同じように、ロシアから反戦の意識が広がり、戦争の終結へと向かうことができるでしょうか。ぜひ、そうあって欲しいものですが、今のロシアを見る限り、反戦意識の高まりから終結へ至る道すじは想像もできません。どちらかがギブアップしない限り、1年や2年で終わるとは思えない状況です。
 ヨーロッパのの歴史をサラッと見ただけでも「30年戦争」とか「100年戦争」などの文字が見えてきます。昨年アメリカが撤退して、一応の結末を出したばかりのアフガン紛争も20年かかりました。ベトナム戦争も20年です。シリア内戦も10年以上経って、現在も続いています。この戦争もそのくらい長期にわたる可能性があると覚悟しておく必要があるかもしれません。

たくさんの命と、ドブに捨てるような莫大なお金。それをこれからの人間たちのために遣ったならば・・と誰もが思っているはずなのに、その思い、その花はなぜいつまでも、待つ人のところへ届かないのでしょうか。