プーチンの戦争2

Apple  F4 テンペラ

ロシアの民間軍事会社ワグナーの総帥、プリゴジン氏が死亡した、というニュースが、昨日8/24世界を駆け巡りました。遅かれ早かれ、いずれは….と誰もが思っていたのでしょう、驚きはどこにも見られなかったようです。

そして、多くの人が「あの時、モスクワまで一気に入っていれば、殆ど無抵抗でプーチンを拘束できたかもしれないのに」とも思ったのではないでしょうか。そうすれば、本心では戦争に行きたくない(たぶん)ロシアの若者たちには熱狂的に支持されて、来年の大統領選挙で圧勝できた可能性もなくはなかったのに、土壇場で躊躇したばかりに真逆の結果になった、そうも思った人も少なからずいたでしょう。古代ローマの将軍、シーザーがルビコン川を渡ったときほどの、勇気も準備も足りなかったようです。

プリゴジンが乗っていたプライベートジェットをミサイルで撃ち落としたようですが、だいぶ前、当時中国ナンバー2だった林彪(りん・ぴょう)が権力闘争に敗れ、軍用機で国外脱出しようとしたところ、領空から出る寸前、ミサイルで撃ち落とされたことを思い出しました。これから(すでに?)おそらく関係者が一斉に粛清されるのでしょう。独裁とはこういうことですが、命までは奪わなくても、国会があっても無視、なんでも閣議決定で進めてしまうやり方、マスコミを金と権力で思い通りにするやり方も “見えにくい” 独裁体制のかたちではないかと思います。

ロシアではプーチン氏への支持率は依然高いままだそうです。独裁の意味を知り、有意な行動ができる若い人たちの多くはすでに国外脱出(60万人以上とも!)しているようですから、プーチンが(脳以外の)健康であるかぎり、この戦争は残念ながら終わる気配を見出せません。

ヒット・エンド・ラン Hit and Run

Apple-たそがれ CGにて加筆中

阪神甲子園球場での夏の高校野球。見る時間も、ラジオで聴く時間もないので、つい結果にも関心が薄くなってしまいましたが、ふとニュースの中で「ヒットエンドラン」という言葉が耳に入りました。高校野球のことかなと、ちょっと耳をそばだてるとウクライナ戦争での、アメリカが供与したハイマース(高機動ロケット砲システム)のことでした。

反転攻勢で攻めあぐねているウクライナ軍で、もっとも活躍している兵器らしいのですが、驚いたことに “損失が確認されていない” という話題でした。つまり一基も失われていないということ。鳴り物入りでウクライナ入りした戦車レオパルド2でさえ、すでに何両か失われたと報告されています。相手がただボーっと突っ立っているのでもない限り、どんな優秀な兵器でも多少は損害が出るものです。相手だって、最新兵器で戦っているのですから、損失ゼロというのは信じ難いことです。

いわゆる“大本営発表” かと思うと、そうでもないらしいのです。その理由は「ヒットエンドラン」。野球とはちょっと違うけれど、「撃ったらすぐ走る(逃げる)」という戦法が、“損失ゼロ” の主な理由なのだそうです。ハイマースはタイヤで走る、いわゆるトラック型の発射台に載せた、GPS誘導のロケット弾システムです。道路がないと走れないというマイナス面がある反面、現場についてからGPSで目標位置を確認するまでに30秒、2発目を発射してから台をもとの位置に戻して移動できるまでに30秒。つまり攻撃から撤退まで約1分しかかからないといいます。2発目から装填に少し時間がかかりますが、4発発射しても3分で撤退できるそうです。ロシア軍が、ハイマースの発射位置を確認するまでに最短でも90秒以上かかり、そこへ砲弾なりミサイルなりを撃ち返す準備ができるまでにさらに数分。その間に台車は最高時速85キロのスピードでその場所を離脱できるので、反撃を免れることができるのだそうです。まさにヒットエンドラン。兵士の安心感も大きいでしょう。その上に、徹底した収納場所の情報秘匿が噛み合っての“損失ゼロ” なのだとか。以上、すべてネット上で見た限りですが。

大砲で撃ちあうなんて、第一次世界大戦並みの“古めかしい戦い” などと一方で言われてきましたが、それを聞くとさすがに現代の戦争です。撃った位置に、たちどころに撃ち返されるなんて。逃げ足の速さが勝敗を分ける。同じようにウクライナ軍に供与された、各種の「榴弾砲(自走も含む)」が相当数破壊(当然、その場の人的損失も出る)されているのも、その逃げ足が遅いためなのだとか。その数分間がまさに生死を分けているのですね。
 不謹慎ですが、自分のスピード感覚が時代に遅れていることも感じました。

手 Hands

8/12(土)アップロードしました

毎日手を使って生活しているのが当たり前で、わたしだけでなくほとんどの人が「いま手を使っているぞ」などとは意識しないでしょう。意識するのは怪我や病気などで一時的に使えなくなるときくらい。あるいは楽器演奏などで、譜面通りに指動かすことができないもどかしさ、工作などであと一本指があれば!とか思うときくらいでしょう。

手は、便利というよりかけがえのないもので、これが人間を他の動物と隔てる壁になっているようです。手が「手」になっているのは人間と「類人猿」だけです。けれど、それ以外の動物もきっと「『手』が欲しい」とは思ってもいないし、それで満足しているはずです。人間だけが手の便利さを知っているから、手が失われたとき、それを補うための道具を考え、そして何より「作れる」のです。さすがに「類人猿」でもそれはできません。

それが「文化」「文明」の力なのでしょう。思想や技術の蓄積、つまりは歴史。人間だけが「歴史」を持っていると言えば、一瞬、そんなことはないと感じるかもしれません。でも、どんな恐竜がどの時代に生きていたかを、人間が作った物差しの中で照らしてみることができるのは人間だけだ、と理解すれば意味は伝わるでしょう。恐竜の骨はたんに「物」であるだけで、それ自体は「歴史」ではないからです。恐竜学者が新しい骨の発掘にワクワクするのは、人類の「新しい歴史」を自分が創っているからです。

もしもわたしたちに手がなければ、すべては「お手上げ」状態で、食事さえままなりません。うまく鳥を捕まえたとしても、ワニのように丸呑みするか、脚で抑えて口で翅をむしり、何より「生きたまま」食べなければなりません。あるいは屍肉か。ほとんどの野生動物がそうしているように。あるいは植物の実や葉を求めて季節ごとに移動しなければ餓死してしまいます(しかも歩いて)。魚など食べることはほぼ一生できないでしょう。そして、歴史を持たないまま絶滅します。
 最近、手の指がだんだん曲がったままこわばるようになり、ことさら手のことを考えるようになりました。