軽い絵、重い絵

「鳩と薔薇」 水彩
「林道の橋(部分)」 水彩

「鳩と薔薇」では、できるだけワンタッチで描こうとしていた。筆を重ねたとしても、なるべく大きな面積を、一回だけ重ねることが目標だった。ちょっと変わった構図だが、小さな薔薇の鉢植えに、お尻を隠すようにしているのを上から見ているという発想だ。

なぜワンタッチかといえば、前回の「林道の橋」で、かなり描写的になったことへの反動だ。別に描写的なことが悪いと言っているわけではない。前回は描き過ぎた感じもあったから、バランスを取るために二歩ぐらい引いてみた、ということ。

絵を描くことは、時には薬のように働く。描くことで気分がスッキリと軽くなったり、反対にそのことによって気持が重たくなるどころか、八つ当たり気味にものを壊してみたり、さまざまな “副作用” が現れたりすることもある。毒にもなるのだ。

重たい絵(一般的に言えば時間、体力・気力が必要な絵、としておこうか)が気分を重くするとは限らない。大きな満足感や充実感を得られることも少なくない。
 軽い絵、重い絵。それぞれに用法、用量があり、どちらにも「効能」があるようだ。症状(気分)に応じて使い分けるのが良い。

林道を描く

      「林道の橋」 水彩

7年前の下北半島での写真をもとに描いた。小中学生の頃は、遊びといえば海か山しかなかったから、集落からはかなり遠いが、この林道も数十回は通ったはずだ。今から考えると、子どもの足でよくあの距離を平気で歩いたものだと思う。往復10kmはある。道の記憶はほとんどないが、今も同じ空気を感じることはできる。

小学校低学年の頃まではここには森林鉄道があり、トロッコを繋いだ蒸気機関車が通っていた。数回は弟と運転室に乗せてもらったのも覚えている。それが廃線になり、木材を運ぶ自動車道路になり、山で仕事をする人々の通勤道になり、集落に比較的近いところには、田んぼも畑もできた。「カイコン(開墾)」という、子どもには難しい言葉もよく耳にした(だけでなく、中学生になってからは実際に労働力にもなった)。
 子どもだけでのヤマメ・イワナ釣り、アケビや山ぶどう狩などの野遊びのメインストリートだった。

田んぼも畑も原野に戻った。炭焼も茸つくりの人も消えて、いまは営林署関係の車しか通らない道になった。子どもだって、アケビなど探しに山へ行かなくても、もっと美味しいものが季節を問わず家の中にある。林道の多くはもう廃道同然で、文字の読み取れない案内板が雑草に埋もれて斜めに突っ立っていたりする。「クマ出没注意」の看板だけが新しい。

この道はその中でも幹線林道で、太平洋側から峠を越え、陸奥湾側まで続いているらしい。車を降り、橋の下を流れる川の水音を聞きながらしばらく林道を歩いた。「今のうちに描いておかなくちゃ」と思ってから7年も経ってしまった。

ブラジルに負けて

        「水指とプラム」 アクリル

「初物」が日本人は好きだ。日本人でなくても、First-time というのは世界中の誰にとっても(喜ばしいかどうかは別にして)記録・記憶に留めようとする意志が感じられる。

けれど、たとえば「初春(はつはる)」。年賀状を出さない人の方が多くなってきたらしいが、たとえオンライン年賀状でも「初春」なんて書くでしょう?俳句などでは「初」だらけだから、一月の季語は覚える必要もない。なんでも「初」をつければ済むからね。もう数万回見てるはずでも「初夢」なんてね。これほどの「初」好きは、たぶん外国人には理解不能でしょうね。これ、Sさんに頂いた、わたしの「今季・初プラム」。美味しかった。

サッカー・ワールドカップ 2026で、日本は決勝トーナメント一回戦で「天敵」ブラジルに敗れた。「初」優勝を目指していたが。「初」戦敗退。出場48チーム中ベスト32だって??。
 でも、日本のレベルは大会ごとに確実に上がっているのは感じる。言葉は悪いが、「お嬢様サッカー」から、少なくとも「戦士」レベルになったことは確かだ。「戦士」なら、勝ち負けは紙一重のレベルだから。

とは言っても、やはりブラジルとの差もすごく感じた。これは、差というより、選手個人、監督、チームを越えた、「文化」レベルの違いだと思う。日本の選手もブラジルの選手も、口にする単語も戦術も同じ。何が違うかといえば、やっぱり彼らの社会の中でのサッカーの位置、意味。そこに生きている選手個々の人生におけるサッカーの比重。社会のサッカー愛の深さ、その中にどっぷり浸かって生きてきた、その「浸かり具合の違い」だと思う。
 いずれ日本もブラジルと同等に戦える時が来る。それでも彼らの「サッカー文化」はリスペクトし続けてほしい、とも思う。