80回目の楽しみ

スケッチの楽しみ方に似ているようだ

俳句を始めて数年になる。毎月1回の句会も昨日で80回になった。途中で自分なりの工夫を凝らした時期もあったが、概ね惰性で、かつ句会前日の「ねつ造俳句」が今もほとんど。反省。

17文字が、やはり窮屈だと感じることが最近ある。(無季の俳句もあるが)俳句の基本的理解としては、一句にひとつの季語を入れることになっている。基本リズムは五、七、五。これを上(かみ)、中(なか)、下(しも)と呼ぶなら、多くは上か下かに季語が入り、その繋ぎでたいてい5文字を消費する。

残りは12文字だが、リズム上の制約があり、使える単語が絞られてくる。だから類想、類句が多くなる。というより、そうせざるを得なくなってくる

しかし、絵画における色の数より、単語の数は多い。色数の限られた絵画のイマジネーションが尽きることのないように、俳句もまた一語一字の選択や配置などによって、伝わる内容も微妙に変化する(ようだ)。こう書くと、職人的な楽しみ方しかないように聞こえるが、そうでもない。

では、俳句は本当に楽しいのか、と聞かれると、どうもよく分からない。ねつ造もそれなりの苦しさがあるから、やめても良さそうに思えるが、あえて止めもしない。たぶん、どこかに何らかの自己満足感があり、本当の楽しさといえばそれで十分なのかもしれない。

「剣道五段」を描く

「女流剣士 」     watercolor

モデルをしてくれたN坂さん、ごめんなさい。途中まで保っていた(と私が思う「次の一歩」)が、なくなってしまいました。これでは、眠そうに竹刀を持っているだけ、「棒立ち」ですね。

デッサンの初めでは「一瞬前」の幾らかは、少しは捉えていた、と思う。けれど、最終的にこれではどうしようもない。でも、イメージには焼きついているので、ホットなうちならもう少し何とかなるかもしれません。

同じ動作を繰り返すというお願いをしての、実際に動きのあるスケッチ。メンバーには良い経験になったと思う。

不または非・「晴明」

「Doll」     watercolor

なんだかイラついている。何かハッキリした不満というより、あらゆることに清々しい明朗さがない、という感じ。今頃の天候などをさす俳句の季語に「晴明」というのがある。晴れやかさと爽やかさが混じったような気分・天候のことだが、どうもそれとは逆とまでは言わないが、「不または非・晴明」という気分なのである。

「感謝」という言葉が、急激に嫌な言葉になってきた。冬季オリンピック、パラリンピックが先頃行われた。昨日から春の選抜高校野球も始まった。ここでも「感謝」「感謝」の嵐。この言葉を口にしないとすかさずどこからかクレームがつく。曰く「あなたの今日あるのはあなた自身だけの力ではない。周囲の力添えがあってのこと。その感謝の気持を持たない人は大人ではない」。

だから、実際に大人ではない小学生、はては幼稚園児まで「皆さんのお陰でーちゅ」と「練習」させられる。そのようなクレームからの過剰回避である。

ごく普通のことをしたのに、「思いがけなく」ありがとうと言われるときの「晴明さ」と、それは似て非なるものだ。「感謝」の言葉は求めるものではなく、自発的なものであるはずだ。それが単なる「形式」になり、形式でよいとするそのような神経のあり様が、どうやらイライラの中身のような気がしてきた。