ベーコンの憂い

     「新緑」  水彩 F6

ベーコンは塩気と油が多いからなあ・・いや、そっちのベーコンではなく、イギリスの画家、フランシス・ベーコンの方。わたしはフランシス・ベーコンの絵が大・大好きだと公言している(と言って誰かが聞いているわけでもないが)が、その人がこんな絵を描くなんて、とフランシス・ベーコンが見たら「憂い」だろうな、というくらいの、いい加減なタイトルである。

わたしが展覧会に発表してきた絵は、上のような絵とは表現が随分異なる。そして、展覧会場で知り合う多くの人は、会場に陳列されているような絵を、わたしが毎日描いていると想像している(と思う)。実際は、ほとんど多くの時間、わたしはこのような具体的なスケッチに明け暮れている。

スケッチをする暇があるなら、一点でも多く作品を創った方がいい、とアドバイスしてくれた人がいる。スケッチなど無駄だとも言った(ような気がする)。そうかもしれない。わたしのように、発表する作品と普段の制作とのギャップの大きい人は特に。世間のものの見方と、それに合わせた効率を考えれば、その方が合理的選択なのかもしれない。
 「あの人はこういう絵を描く人」「あの人は○○をする人」などと、一つのイメージに固めることができれば分類・記憶の整理が楽だから、多くの人はそんな風に単純化しようとする。画家の方もバカではないから、ひとつのイメージにまとめてもらいやすいように、それに合わせたイメージしか見せないようにする。それがCMの基本的な考え方だ。
 アスリートも、引退宣言して、初めて選手以外の「人間」として見てもらえるようなもの。先日紹介した「わたしを束ねないで」もそういうこと。

けれど、(誰もが知っているように)どんな人ももっと複雑で多様な、時には自分自身ですら気づかない別の面を持っているものだ。フランシス・ベーコン(の絵)も、わたしをこう見ていたかも知れない。
 「お前の見方は表面的で薄っぺらい。それはお前自身がそうだからだ。オレはもっと深いものを見ているのだが、お前はそういう視点を持っていない」。ベーコンの憂いである。

風光る

真っ直ぐな一本の道風光る。正面に富士山が見えるのですが・・
木々の芽吹き。モンドリアンの絵「リンゴの木」のようだ
カラスノエンドウ。秋に黒い実をつけるので、この名がある

「風光る」は俳句では春の季語。
 風光る海峡のわが若き鳶  佐藤鬼房
そういえば、散歩道で鳶(とび、トンビ)の声を聞いた。鳶は海辺や大きな川の河口付近には多く、こんな内陸には比較的少ないが、ここも東京湾からせいぜい数十キロ。たまにユリカモメも見かけるくらいだから、鳶がいてもおかしくはない。ただ、「声はすれども姿は見えず。」

毎日同じ散歩道を通っても、毎日新しい発見がある。モノでなくても、自分のこころに新しい感覚があることも、ずっと忘れていたものをふっと思い出すこともある。
 そんなとき、俳句を作る。上手くできず、五、七までで止まっても、そこだけスマホにメモしておく。あとで十七文字になるかもしれないから。

先週はオオアラセイトウ。それはいま真っ盛りだが、正月から咲いているホトケノザも全然衰える気配がない。強い草なんだなあ。春の七種(ななくさ)に入れられている意味が分かる。今週はカラスノエンドウ。小さく可憐な紫の花、羽毛型の葉、そして髭蔓。これで一句できた。

「鯉の乗っ込み」も既に見た。例年より半月は早い気がする。今年の夏はたぶん“酷暑”もしくは“炎暑”。気象庁はこれまで35℃以上の日を「猛暑日」としていたが、それでは足りない、ということで40℃以上の日の呼び方を3月29日まで募集していた。どんな名称になるかな。わたしなら「地獄日」かな。良くても「昇天日」。まあ、死ぬほど暑い、ってことだけど、野の植物はむしろ我が物顔になるだろう。サボテンのデザインに感嘆する夏が来る。

清明

             「ゼラニウムー潮満ちて」  水彩・アキーラ

一年間の季節の変化を感覚的な言葉にまとめたもののひとつに、古来から使われている「二十四節季七十二候」というのがある。多くの人はその中身を全部は知らなくても、聞いたことくらいはあるはずだ。今日はその中の「清明」にあたる。

文字通り「清々しく明るい」時期だということ。朝は雨が残って湿っぽかったが、日の出から2時間くらい経った頃には晴れて、日が差してきた。今日もTシャツで汗を拭きふき、壊れたロボットのようにギクシャクとだが、ウォーキングしてきた。

でも、せっかくの日曜日なのにやったことはそれくらい。やろうと思っていたことの1/3もできず、夕食後の片づけ中に妻と口論しただけ。朝は「清明」だったのに「暗澹」の虚しい一日になってしまった。朝の仕事を朝のうちにやらなかったゆえの自業自得。