「絵を楽しむ」って-2

「オオカメノキ」水彩 F6

現代では、簡単な文をいくつか綴るだけで、ソフトが “original” の絵を描いてくれます。売ろうと思えば、それを売ることもできます。それを売るためのプラットフォームにも事欠きません。欲しい人、それを見るだけの人とも、少なくとも外形上は、これまでの油絵や水彩画と同じように、いや、もっと簡単に「楽しみ」を共有することができます。

「観る楽しみ」という点で言えば、浮世絵版画を買い、ふすまや屏風に貼り付けて楽しんだ江戸の人々、美術館前に長い列を作って、一目名画を見ようとチケットを握りしめる人々も、ベッドに寝そべりながら多くの人とチャットでAIで描いた絵を共有する人々も、それぞれ自分に合った(選択肢があろうとなかろうと)やり方で「楽しむ」、ということに変わりはないのかも知れません。

AIで描く絵は「統計」を基に生み出されるものであることが、理論上はっきりしています。筆で描く絵は「感覚」を基にしています。基にするものが、一見、水と油のように異なったものに見えますが、感覚は経験とも結びつき、経験は(ゆる~く)統計とも関わっていそうでもあります。統計上の一つ一つの画像データの中にも、個人的感覚や経験が反映されているでしょうから、わたしが感じている以上に、実際は近いものなのかも知れません。AIが極めて短期間に、簡単に社会に受け入れられ始めているのも、そういうことなのでしょうか。

けれど、少なくともわたしは、「描く楽しみ」を AI と共有できません。理由をよくよく考えてみると、AIには「(生みの)苦しみがない」からかも、と思い当たりました。「楽しみ」を共有する話をしているのに、「苦しみ」の共有を持ち出すのは矛盾かも知れませんが、それは「描く楽しみ」の不可分のパートとして、確かにそこにあるのです。見るだけの人にも、作者の苦しみを想像できるような、何らかの経験を持っている。だからこそ、より深い共感が生まれていた、そんな気がします。

「絵を楽しむ」って

「クレマチス」水彩

「絵を楽しむ」って、普通に使う(使ってきた)言葉ですが、最近?だんだん難しく感じるようになってきました。つまり「絵」というのが「絵画」ではなくなってきたようなんです。「絵画」の定義が揺らいでいるというか、「楽しむ」の意味がゆらいでいるというか、そんな感じがするんです。

現在、多くの、絵を描く人にとっては、「絵を楽しむ」ことに何の変化もありません。文字通り、描いて楽しみ、観て楽しむ、それを多くの人と共有して楽しむ、それがすべてです。描かない人にとっては、観て楽しむ、その機会を共有して楽しむ、ことでした。

歴史上は、「絵を楽しむ」ことに、版画(出版物)が大きな貢献をしたことが知られています。誰もが知っている「浮世絵版画」。江戸時代では、絵を楽しむと言えば、まずはそのことを指したに違いありません。現物(版木?)を見たいなどという発想すらなかったでしょう。ヨーロッパでも、現物の絵を鑑賞できたのは貴族階級、僧侶、教師くらいのもので、ほとんどの人は教会の中の宗教画や、簡単な版画(摺りもの)だけを見て楽しんでいたはずです。

展覧会場で実際の絵(絵画)を鑑賞することができるようになったのは、比較的近代になってからのことです。鑑賞者は絵を通して作者の意図や感覚を共有、享受。それが「絵を楽しむ」ことの中心的なイメージになりました。
 その「絵」がAIの出現で、変質?しようとしています。これまで「観て楽しむ」だけだった人々が、「言葉」を変換することで「絵を描ける」ようになってきたのです。画材の知識も、もちろんデッサン力など何も要りません。「ピカソ風のブロンドの女」「椅子に座っている」などと、短い文を打ち込むだけでソフトが「絵を描いてくれる」んです。しかも、オリジナル性も保証されます。わたしのような従来型の画家から見れば、「絵を描く楽しみ」すら共有できなくなってきたのです。嫌な時代になってきたなーと感じています。

絵を描くタイミング

撮影準備中
陽あたりの道ー背景の工夫

朝は元気で、さあやるぞ!って感じだったのが、時間とともに沈んできた。特に痛いところとか、あるわけじゃないが、生きていると、誰でも様々なクソ用事が出来てくる。それが重たくなってくる。「人生にストライキ」なんてできたらいいなーとか。もう、ストライキなんて言葉も死語化するほど、世の中ツルツルになっちゃってて。

絵を描いて、疲れたーって感じたことがあまりない。動かないで、あれこれ悩んでいる方が何倍も疲れる。適当にウォーキングするほうが、休んでいる時より元気になる。脳の疲れには肉体労働が効く、とはよく聞くが、実際そう思う。

そういうわけで、(ごく)最近は疲れたら「絵を描く」。もちろん、疲れすぎていちゃダメだけどね。