野外スケッチの方法:スケッチをしよう

スケッチが出来ればそれで十分。スケッチに軽く色を着けられ、ちょっと飾れるような絵が描ければそれで満足、という人が、あらためて絵を描き始める人の少なくとも95%以上だろう。その95%以上の人たちのニーズに、たぶんこのビデオは応えている。けれど、それより前、風景に限らず、絵が描きたいと思った段階でいつでもこのビデオを見てもらえるといいな、と思いながら描いていた。

小中学校でのスケッチ会などを通じて、多くの人は少なくとも数回のスケッチ体験をしている。けれど、そこで面白さを発見し、その後もたとえば美術部に所属するなど、自ら積極的にスケッチを続ける人はずっと少なくなる。多くの子どもにとって、パソコンやスポーツなど、スケッチよりもっと刺激的で面白くものがたくさんあり、また親を通じて「のんびり絵など描いているより勉強」という社会環境をより強く意識するようになるからでもあろう。いずれにせよ、スケッチなど(が許される)するのは子どもの時だけ、スケッチなど生活の足しにならないどころか時間の浪費、という考えのようなものが、見えない壁のようにスケッチの前に立ちはだかってしまっている。

その上、時間の浪費どころか体力も遣う。スケッチではまず「歩く」ことが前提だ。歩いて「探す」。自ら探さなければ何も見つからない。それがスケッチの背骨である。自然条件にも左右される。せっかく出かけた先での急な雨風、交通トラブル、体調不良などのアクシデントもいくらでも起こり得る。しかも、そうした代償の割には、一人静かなアトリエで、黙々と制作する一枚の絵ほどの評価も得られないのが野外スケッチ。ひとことで言えば「割に合わない」わけだ。

そう考えると多くの人がスケッチをやらないのも、経済合理性という観点からは理解できる。その点ではスケッチと登山は少し似ている。世界の高峰への初登頂というならまだしも、毎年何十人、何百人と登る普通の山に、準備と交通費をかけ、しかも雨が降れば途中で引き返すなどの「無駄」にどんな意味があるのか。経済合理性では説明しようがない「浪費」だろう。山を歩く楽しみは、自分の足で山を歩かなければわからない。食べ物の味はリポーターがどんな言葉で伝えようと、結局は自分が食べてみなければ分からないのだ。スケッチの楽しみも、描いてみて、描けるようになるにしたがってだんだん深い味が解ってくる、としか言いようがない。スケッチは定年退職など待ってからやるものではなく、いつでも、たった今から始めるのがいいのである。