
透明なものに、なぜか人は心を惹かれるようだ。「宝石」はまあ特別としても、ガラスが玻璃と呼ばれ、宝石以上に珍重されたらしいことは、奈良正倉院のペルシャガラスが今に伝わっていることからもわかる。古代インドあたりに栄えたムガール帝国のムガールグラスにも、決して現代のガラスのように透明ではないが、やや乳白色がかったぼんやりした反透明感にも、えもいわれぬ魅力を感じたことを思い出した。
「透明」と「澄んでいること」は同じではないが、共通したイメージはある。さらに想像をつないでいくと「澄んでいる」と「濾過された」も意味が近づいてくる。濾過された水は美しく、透明であるが危険でもある。栄養分すら取り除かれてしまい、「水清ければ魚棲まず」となることもあり、透明に近い血は死の危険性が香る。
完全に透明なものは目に見えないはずだから、そこに光が反射したり、屈折があったり、ほんのすこしの淡い色があったりすることで「透明」と意識される。それは澄んでいることにつながり、長い時間をかけて「濾過」された水のイメージにもつながってくる。川底の石が見える清流に心を癒されるのは、そういう時間を経た安心感にも依っているに違いない。
澄んでいるものはどれも儚(はかな)い。簡単に汚されてしまう、貴重なもの。なるほど、わたしたちの心の鏡のようなものなんだ。それは純粋でありたいと願う精神とも深くつながっているだろう。大事なものを見るには澄んだ目が必要だ。そうだ、そのことをもっと大切にしよう。