発想

切り子のグラス  (CG)

発想というのはある日あるとき、突然に頭に閃くもの。そして、それはずっと考え続けていたバラバラなものが、急にこれまで予想もしなかった結びつき方をした瞬間。ノーベル賞受賞者たちの中にはこういう体験を話す人がいる。ノーベル賞でなくても、発明家などにも同様の体験をする人が少なくないらしい。

自分と比べるのもおこがましいが、レベルを別にすれば似たり寄ったりの体験は、誰でもある程度あるのではないだろうか。一方で、あの人の発想はいつもちょっと変わっている、などということもあり、その場合は突然ではなく、普段から別回路の発想法?をもっているということになるだろうか。

わたしがいま望むのは「ノーベル賞型」ではなく、「発想法型」の発想法である。言うまでもなく、マネできそうなのはそちらしかないからだが、そう思っていろいろ調べたり、考えたりしていると、発想(法)云々は実は発想の問題ではなく、単に「考えること」なのではないかという気がしてきた。要するに、「考えない人」から見れば「考える人」がユニークな発想に見えるだけなのではないか、天才的な発想というのは確かにあるだろうが、一般的にはそういうことがほとんどなのではないか、と思えてきたのである。

考えない人などいないだろ!お怒りはごもっともです。でも、まともに、とか論理的あるいは合理的に、とかあるいは科学的に等々、少し限定すると急にその怒りも鎮まるように思う。何が大切で、そのためにはどうするのか、どんな方法があるのか、それを自分でどうやるのか、そんな筋道を「普通に考える」ことのほうが、案外「ユニーク」と考えられているのではないか。「考えること」は「思う」こととは違う。考えるためには知らなくてはならないし、知るためには学ぶ・調べる・経験するという「行動」が要る。わたしが「考えない人」のど真ん中にいる理由はこれだな。ナマケモノなんだ。

Glass apple

Glass apple (2021に加筆)

2020年にいったん完成させた作品に加筆したもの。加筆箇所はほぼアウトラインのみ。前はウルトラマリンの細い線だった。何となく納得できないまま、ほぼ1年放ったらかしになっていたが、昨日ふっと「アウトラインの細さが、存在感の無さにつながっているのではないか」と思いついた。

同じウルトラマリンで太くしてみたが、効果が弱いと感じたので思い切って黒を混ぜてみた。線の端が必要なラインからはみ出すのは、一度筆を止めた直後に無造作に再び筆を置く癖のため。水彩の時はそれでリズムをとることもあり、必ずしも悪い癖とも言い切れないが注意が必要だ。まあ、試験的な作品だからいいとしておく。

黒という絵の具は、艶があると締まった深い感じを与えるが、艶が無いと灰色に見えてしまう。水彩の場合はアクリル板を使うと黒がすごく良く見えるのはこの「艶」の効果。ここでも黒だけは艶を出してみた。「ガラスのApple」という題にしたが、そんな感じは出ただろうか。

「夏の夜のベランダ」(水彩)制作

「夏の夜のベランダ(未完・部分)」(水彩。斑点はアキーラ)

今日は終日水彩を描いていました。普段は絵画教室の生徒さんの絵を批評するだけ。偉そうに口で絵を描いています。口で描いているとだんだん理屈だけは上手くなってきて、自己暗示にかかるのか、何でも上手に描けそうな気になってきます。たまに実際に描いてみるとオッ、オッ、か、描けないじゃん、って感じでやばいです。

そんなわけで、今回はスケッチブックより大きい画面(F60号)にコッソリ「お勉強」です。

この絵を(生徒さんの絵だと思って)批評してみると、以下のようになるでしょうか。①(緑、黄、赤)それぞれの色が高彩度で主張し合い、画面が分裂気味 ②モチーフも、静物・人物・風景とデラックスに盛り込み過ぎ ですね。でも、ちっとはチアー・アップしないとやる気無くしますから急いでフォローします。①’そのぶん、元気のいい画面になってるよ ②’モチーフは確かに大盛サービスし過ぎだが、植物、人物、風景と描写レベルに差をつけているのはGood!  ③’失敗は他の人を元気にしますよ とか。

制作現場の反省としては(まだ「未完」なんですが?)、なんだか変に肩に力が入り過ぎてブリキのロボット感。こんな時は、しばらく放っておくと頭を冷やす効果があります。「ひさしぶり」ってのが肩に力が入る理由ですね。コンスタントに50~100号サイズを描き続ける必要があるってことでしょう。でも、それはあくまで勉強のため。自分自身が心地よくなるために描くなら、画面の端々まで手が自由に届くサイズがいいでしょう。10~20号くらいですかね。あまり小さい画面だと気持ちまで縮んでしまいます。