
表題は「どうやったら物事をよく考えられるような人になれるか」というような意味。critical は「批判的な」という意味があるが、日本的な、いわゆる反対するという気分より、「人の言葉を簡単には信用しない、鵜吞みにしない」「迎合せず、自分の頭で考える」というニュアンスの方が強いようだ。欧米では、子どもの時からこのことを訓練するらしい。
「自分の頭で考える」。そんなのあたりまえ、日本だってやっている、とは思う。けれど、自分の頭で考えたことを「人前で発表する」まではなかなかいかないのが現状ではあるまいか。発表すればリアクションがある。好意的なものばかりとは限らない。発表する側も批評する側もそこで考えが深まり、自分の頭で考えることの「中身」が深化することになる。だから、発表するということはとても大切なプロセスなのだ。
日本の学校ではなかなか「発表」ができない。あっても、ある程度決まった方向だけに偏り、賛成意見ばかりになりがちだとも聞く。そんななかであえて反対意見または疑問を述べるのはかなりの勇気がいる。先生も、反対意見を述べる子が孤立したりするのを恐れてか、適当なところでまとめてしまう。もう数歩進めるには先生の側にもそれなりの力量が要るのだろう。たとえばNHKの「徹底討論」が「徹底」といつも程遠いのは、おそらく似たような心理が働くからではないかと常々思っている。
相手を論破したり、説得できた方、つまり論争で勝った方が必ずしもが正論ということではないし、よい意見だということでもない。反対意見によって自分の見落としや考えの足りないところを考え直し、双方ともよりよい意見になることが良い討論であり、そういう謙虚な姿勢があれば、最終的に意見が一致する、しないに関わらず、それぞれより深い考えに発展する。
その意味で反対意見は貴重で、大切なものだ。けれど、当然ながら発表することがなければ反対意見など出るわけはない。こうした発表と討論の訓練を経ることで、発表する前によく考えるようになり、発表した後にもさらによく考えるようになる。日本では、選良中の選良であるはずの大臣ですら、このことがよく出来ていないのではないか、と思うことがけっして少なくないのが残念である。