8月の俳句季語

エスキース Aug 1 ’21

八月の俳句季語について、2,3拾ってみる。とりあえず「山滴る」「天牛」「玫瑰」から。「山滴(したた)る」。山が「滴る」って感覚がすごい。山全体が瑞々しく潤い、そこからじわじわと滲みだしてくるような、鋭敏で鮮烈、雄大な大きさ。草田男の「万緑」に匹敵するような気がする。こんなすごい季語を安易に遣ってしまうと、句全体が季語負けしてしまいそうだ。ちなみに「八月」自体は俳句では「秋」。ことしの立秋は8月7日(土)である。

「山滴り」という季語がある。こちらのほうが多分古い季語だろう。「山滴る」とほとんど同じような字面だが、こちらは岩や苔の上を染みるともなく滴る、あの滴りのことらしい。掌に受けて顔を洗い、喉に流し込むときの清涼感溢れる情景が目に浮かぶ。「山清水」「石清水」という季語感に近い。山滴りの焦点距離はせいぜい1メートル以内か。「滴る」と「滴り」のイメージはずいぶん違う。

「天牛」はカミキリムシのこと。捕まえると大きな触角と太い足を振り回しながら「ギーギー」と啼く。そのがっしりした身体と太い触角が水牛を思わせたのだろう。「天」は、この虫が空を飛ぶからだろう。よく昆虫採集初歩の人の最初のコレクションになるという。種類も多く、よく見ると模様の美しさと堂々とした体躯が釣り合って、鎧兜のようである。わたしは天牛という字面自体が好きだ。天空を古代の戦闘馬車や御所車を牽いているイメージをつい浮かべてしまう。

「玫瑰」は、読めない人の方が多いのではないか。「はまなす」と訓読する。俳句では「浜茄子」「浜梨」とも使われる。茄子とか梨とか書かれるのは、その実が食べられるからだろう。赤く熟すとほんのりと甘い。バラ科の植物で、鋭い棘がびっしり生え、海岸に背の低い群落をつくる。わたしの子どもの頃は延々十数キロに渡るハマナスの大群落があり、わたしの原風景となっている。母の葬儀の時はハマナスが満開であったことを覚えている。花は品の良い赤紫で、強い芳香がある。天皇家では一人一人に「お印」とよばれる一種のトレードマークがあるそうだ。「玫瑰」は雅子皇后のお印である。

夏の季語には、おおらかで、人を力づけてくれるような季語が多い。記憶の中から自作の一句(「自慢の一句」ではない。他を思い出せないだけ)。
 廃校の土乾きけり雲の峰
廃校の一教室を絵画の制作場としていたころの一句。子どもたちの歓声と汗を吸い込んでいたグラウンドの土も、廃校になってすっかり乾いてしまった。遠くに積乱雲が湧き立ち、雄大な雲の峰となっている―「雲の峰」は夏の季語を代表するものの一つ。