Sさんが亡くなった

少年と犬 F50 テンペラ 1998

Sさんが昨日亡くなった。長い闘病の末だった。元気だった当時のSさんのメインテーマは「犬」。このブログはできるだけ新作を載せながら書くようにしているが、そのようなわけで今回十年以上前の(私のだが)作品を載せることにした。ささやかだが追悼の意を表したい。

Sさんとは大学の公開講座・水彩クラスで初めて知り合った。私とは講師と受講生の関係である。私が講師であったが、教わったのは私の方がはるかに多かったような気がする。彼女の方が年上で人生経験が若干上というだけではなく、それ以上に絵に対する情熱が私よりはるかに凄かったからだ。その情熱は同じクラスのすべての人に留まらず、絵が好きだという人すべてに共感するというような、ある種、凄まじさのようなものが感じられた。当時彼女の影響を受けた人は多い。私もどことなくその情熱に感動し、どこか高揚したような、アドバイスなのか、アジテーションなのか、宣言なのか分からないことを口走っていたような記憶がある。

県展では入選の常連。なぜなら誰にも出来ない技法を編み出していたから、どの審査委員もそのことに一目置いていたからだ。「ああいう絵は絶対に落としてはいけない絵だよな」と、私の受講生とは知らず、私に語った審査員がいる。殆ど毎年賞候補だったが、賞にならないうちに病気になり、出品できなくなった(そのことに私も若干の忸怩たる思いがある。)。

彼女の(今は形見になってしまったが)頑張りを示す、失敗作の断片を頂いてある。その断片を見るだけで、彼女の(努力だろうが、そうは言いたくない)情熱の一片を感じることができる。おそらく、「世界の」水彩史上類例のない技法であることは間違いない。もしも私に、美術界で発言出来る日が来たら、必ず語るべきエピソードであると思っている。

たった一つだけ彼女の小さな勲章がある。埼玉県文展というのがあった(今は無い)。最高賞は労働大臣賞で埼玉県知事賞の上、それを受けたことだ。授賞式前のNHKなど報道機関のインタビューを受けている時、彼女は記念に私と一緒に写真に収まりたいと言った。私は私の指導など無関係に、受賞は彼女一人の努力の結実だと思い、それを汚すまいとして一緒に写真に収まるのを断った。それに、そんな賞など単なる「初めの一歩」に過ぎない、凄いのはこれからだぞ、という指導者としての内心の傲慢さがあった。それが彼女が病気になってから一番の後悔である。私に謙虚な心が無かった辛いエピソードだ。心からご冥福を祈ります。2011/7/21