スマートフォンを使い始めた

スマートフォン、いわゆるアンドロイドを使い始めた。アンドロイドとは人間の形をしたサイボーグのことだが、それがなぜスマートフォンなのかは、正直よくわからない。携帯電話の代わりに買ったが、これは電話ではないことが分かってきた。

もちろん電話の送受話はできるし、メールも送れる。カメラも付いているから携帯と同じ機能はあるが、要するに小さな、機能限定のパソコンのようなものかも知れない(まだよくわかってない)。でも、一番使いにくいのが電話だという意味で、これは携帯電話ではない。

使い始めは多くの人が失敗するらしいが、私も失敗した。電話をかけようと思わないのに、かけてしまうのである。スマートフォンはタッチパネルだから、上下にスクロールするのに指でスッと撫でるのだが、その指が触れた電話番号に、それだけでかかってしまう。自分が相手にかけていることにさえ気がつかない。かけている意識がないから「もしもし」と相手の声がして、驚き、慌てふためいてしまう。ドギマギしながら、とりあえず話をするが、完全にシドロモドロ。

相手にしてみれば、自分からかけておいて「何これ?どうなってるんだ?」なんて、ふざけてるのかと思うだろう。こっちは冷や汗ドッチャリ。しかも電話の切り方さえまだ分からない。「えい、こりゃどうすりゃいいんだ!?」なんて独り言を言ってると「何言ってんだお前は?酔っ払っているのか?」と相手から電話を切ってくれて、やっと一息。こちらからはどうやって終了するんだろうと、もう一度手にとって、まじまじと画面を見ながら、あちこち触ってると、また別の人に電話がかかってしまう。しかも女性、時刻は午前2時。やばい、これじゃ、ストーカーだあ!と思いながら、またシドロモドロしているうちに、どこかイイところに触ったのか、運良く相手が出ないうちに切れた。

あぶねー、手が震えている。こいつはうっかり触われないぞ、と大警戒。まるでゴキブリをやっつける時のように低く身構えて、なるべく画面の真ん中あたりに触れないように、周辺からソロリとタッチ。無事に電源を切る。しかし、電源を切ったら、何のためのスマートフォンなんだ?

翌朝、子どもに教えを請う。なんと連絡先だと思っていたのは、送着信履歴。連絡先は?と聞くとさわってみれば?思わず首を横に振ってしまう。まあ、こんな風にして、なんとか電話の方法は覚えた。しかし、知らないことを、しゃべるだけで調べてくれる音声検索は便利だ。前途多難、物笑いの種を家族に提供中ですが、そのうちカッコよく使いこなせるようになりたいと奮闘中です。

「節電」が怖い

この夏の電力需給のひっ迫を先取りして、節電の強制、半強制、お願いのそれぞれに、それぞれの方法が検討されているようだ。NHK(を見るなんて恥ずかしい気がするが)を見たら、家庭での節電の方法がいろいろ紹介されていた。なんと「楽しく節電しよう」!家庭で、子どもと節電ごっこをする・・、節電ゲーム・・等々。学校でも「誰かが教室の電気を消してくれました・・」。見ていて鳥肌が立つほど怖くなった。この調子では、本当の夏場になれば、隣同士、町内での「あそこの家は節電に非協力的」「あそこは朝からクーラーをつけている」など、まるでかつての共産圏の密告社会のようになるのではないかと思ったのだ。

心配し過ぎ、今の日本でそこまでは無い、と言う人が多いだろうが、私は決してそうは思わない。節電の旗振り役をやる人が、必ずと言っていいほど節電警察の役もやるだろうと思っている。たとえば自発的に始める清掃奉仕。初めはいいが、そのうち参加者が増えてくると、参加しない人が「悪い奴」にされていく。参加しないだけなのに「ゴミを捨てる奴」「敵対する奴」とだんだんにエスカレートしてくる。PTAなどに出るとそんなことが当然であるかのように起きている。同じことが「節電」でも起きると考える方が自然ではないか。

村上春樹の「1Q84」が一昨年、ベストセラーになった。そのもとになった(というのは言い過ぎだが)ジョージ・オーウェルの「1984」を読んだ人は、「1Q84」の読者より少ないかも知れない(この際だから、読んでない人には一読をお勧めする)。描かれているのは、1984年が近未来である時点でのヨーロッパの仮想の国。そこは一種の管理、監視国家だが、よくみるとそれは現代の私達の生活をほんの少しいびつに照らし出しただけのように見える。その近さに私は身震いした。

少しずつ制作が進んでいます

大震災以来、気持が集中せず、遅れていた大作がだいぶ進んできました。

二月末頃、大作のアイデアを決めた。空を海に見立て、そこから滝のように水が落下する、大洪水のイメージ。その海の中に、今目覚めた巨人がゆっくり立ち上がろうとしている。滝のように落下する水は都市の真上から滝のように落ち、湧きあがり、こぼれ落ちていく。リアルなイメージがはっきりと脳裏に浮かんでいた。

3月11日、そのイメージが突如現実のものになってしまった。ショックもあり、そのままの構図、構成ではリアル過ぎて、とても描き始めることができない。当初の2.1m×5.4mを半分のサイズにして2点制作することに変更。タイトルは変更せず「シェルターの男」。シェルターのイメージも昨年から展開中だが、福島原発事故が現実に進行している今となっては、時事的な話題を捕えた、付け焼刃のイメージに受け取られるかも知れない。予言的な作品だが、仕上がりが事故より後になるのが悔しい。

「雲湧く谷間」のシリーズも10年続けたが、赤い雲が、山頂から谷を下ってくるイメージが、途中で発生した雲仙普賢岳の噴火、その火砕流とそっくりだったため、時事的な絵と見做され、結局シリーズを止めざるを得なかった。ある意味で予言が的中し過ぎる不運であるが、まさに運であるため私にはどうすることもできない。

それなら次は一億円当たった絵を描いてやろうと思ったが、具体的なイメージが湧いてこない。当たる確率は無い、ということか。