坂本新市展を見て

坂本新市「世界樹」

川越、ギャラリーユニコンで開催された「坂本新市」展を見た。素晴らしい作品展だった(会期は既に終了。会期中にアップ出来なかった)。恥ずかしい話だが、「坂本さんの作品に注目しだしたのは最近 のこと。数年前から。最初は「何か言いたいことが詰まっているようだが、雑音が多く、よく聞き取れない」という印象だった。

ほんの数年前から、彼は一つの色彩を捨てた。捨てたことによって、彼に必要な色だけがキラキラと輝くように残されて、それが彼自身の持っている色彩を、より一層引き立てているように感じた

「世界樹」という彼のテーマはずっとずっと以前から温められていて、それを表現しようとさまざまな行為、工夫を積み重ねてきたことは、作品の前に立った瞬間から風のように吹きつけてくる。しかし以前の悪戦苦闘ぶりがすっと奥に引っ込み、彼の声だけが無駄なく魅力的に伝わってくる。これまでのすべてがぴったり噛み合ってきたという印象だ。大変な集中力がその背後にあったに違いない。

以前のような、少し遠慮した、おどおどした言い方でなく、ハッキリ、堂々と「これがオレの世界だ」と宣言し、実際にその価値があると認めさせる個展だ。昨年彼は国画会の会員に推挙された。これから毎年、彼の独立宣言以後を追っていくことができる。彼のような有為な作家を、このタイミングで(彼にとっては厳しかったが)会員に推挙できる、国画会の懐の深さもさすがだと思わせた。 2011/9/16

台風がやってくる

In season  F6 水彩 2011

台風15号がやってくる。久々の大型台風が関東にもやってきそうだ。朝の天気予報を見る限りでは、静岡あたりに上陸、本州を縦断しそうなコースだ。台風は忘れた頃にやってくる。埼玉ではしばらく台風を忘れていた。

3月の大震災以来、日本列島の、いや日本を取り巻く世界の何かがこれまでと違う運動を始めているような感じがする。物理的にも精神的にも。埼玉は台風被害などもう忘れかけている。「元気な台風よ、来い」などと、以前ブログにも書いた。でも、今回は本当に十分に元気な奴が来てしまうかもしれない。少しやばいかも。

少しの被害は私たちの緊張を適度に高め、意識を活性化させる。頭の中にも適当な規模の台風が吹くと、老化を幾分かは遅らすことができるかもしれない。しかし相手は大自然だ。そう人間の都合よく行くはずもない。「願わくば」である。

数時間後。台風はどうやら埼玉県を通過。まだ風はあるがほぼ雨はあがったようだ。少しの被害も、やはり無いに越したことはない。脳が刺激を受け、活性化しないからやがて本当の試練の前にはあっさり消えてしまうことになるのかも知れないけれど。9/21

原発の立地条件は貧しさ

青森県上北郡六ヶ所村

父のクモ膜下出血の報に急いで帰郷したが、その時に車から撮った写真。撮影時刻は8月17日水曜日午前11時頃。平日である。

六ヶ所村立郷土館の看板が出ている。立派な施設において特に公開すべき程の展示品は無い。六ヶ所村は今最も注目されつつある(おそらく復旧が進めば更に注目されるだろう)、原子力関連廃棄物の再処理施設(日本原燃)のある村だ。そういう(危険な)施設を受け入れたなら、国や原子力関連の企業連合がこれだけの施設など簡単に作ってあげますよと、何よりもまず地元民に対してアピールしているのである。

これは私の実家のある、東通村でも事情は全く同じ。マグロで有名な大間町でも変わらない。いかに有名とはいえ、年間数トンの巨大マグロで町の財政が賄えるわけがない。基本的にはこれらはすべて原発無しでは成り立たない、産業らしい産業の無い、貧しい町村ばかりなのである。

国の統計によると、六ヶ所村の平均年収は1520万円(2010年)。ごく最近の簡易統計でも1336.6万円(2011)である。比較対象として云えば、東京都599.7万円(平成20年・厚労省統計)、埼玉県473.5万円(平成20、厚労省)である。六ヶ所村が飛びぬけて豊かな経済基盤を持っていることが分かる。詳しい事情は省くが、その理由はここが実質的に日本で唯一の「核のゴミ捨て場」だからである。

日本全国、各県のイメージ調査がある(調査の年月日は忘れた)。イメージだから必ずしも現在の実態を捉えているわけではないが、逆にいえば過去・現在・未来を総合した、より巨視的な現実を捉えているともいえるかも知れない。その調査では北海道はヨーロッパ的なイメージで、全体として肯定的に想われているようだった(現実はあらゆる意味でかなり厳しいが)。岩手県は宮沢賢治のイメージが強く、貧しいが明るく、知的で前向きな評価。対照的に青森県のイメージは暗く、地の果て、貧しく陰惨な負の印象が強かった。人物で言えば盲目の三味線師高橋竹山、太宰治、寺山修司、連続ピストル射殺事件の永山則夫などを想い浮かべても、明るく健康的なプラスイメージは全然出てこない。

貧乏なくせに助け合うどころか足を引っ張り合い、酒に呑まれては人を呪い、世を呪い、挙句は脳卒中か首つりで死んでいく。それに近いのが青森県の県民性だそうだが、私もまたそんな風土に嫌気がさし、二度と帰るものかという気持で下北を後にした十八歳だったような気がする。上野駅で「お兄さん。働くところならあるよ」と日雇狩りに声をかけられたことを忘れることは出来ない。私の全身からそんな空気が染み出していたのに違いない。

そのうえで六ヶ所村の1520万円の意味を考える。豊かになって良かったな、という心境にはとてもならない。何かが1520万円の代償になっているはずだ。施設用の土地買い上げの際、時ならぬ金を巡って人殺しまで起きた村だ。それまでは牛と人が一緒に暮らしていた、貧しい寒村だったが、老人2人で部屋数50を超えるような御殿(私の趣味ではないが)が幾つも建った。それらの御殿より中学生の私の目にも牛舎の方が美しいと感じたものだが、牛は原燃との選択肢にはなれなかった。

報道を見る限り、福島の実情は青森県と大同小異だ。事故は、たまたま福島県で起きてしまったが、それが青森県であり、新潟県であり、大分県であっても、他のどこで起きても何の不思議もない。原発を必要としたのは都会や工場地帯である。そんなところにはいかに「安全」であっても「怖くて立てられない」。しかし、田舎に立てればなぜか「絶対安全」になるのである。金は確かにモノを言う。あるいは口を閉ざさせる。誰であろうとそこに住めば1520万円にさよならすることなど不可能なのである。

自然豊かなふるさとより、経済的に豊かな街の生活の方を私たちは選択した。「自然が好き」という人々のほとんども、豊かで便利な街の生活を前提にしてのことだ。脱原発依存と政治は唱え始めたが、各国の反響を受けて既に及び腰の感がある。当てにならない政治、当てにならない大人たち。帰るあてのないふるさとを後にした福島の子どもたちの現実は、別の形で全国に広がりつつあるのではないか。この国の、近年までの「経済大国」ぶりの足元は、実はまだ泥でよごれた、裸足のまんまだったのではないか?