これじゃ魚は釣れない

          「ベビーシッター」  水彩

謎めいた絵になった。悪い意味で。もともとこの場所がやや現実離れした(実際は東京某所)謎めいた情景ではあったのだが、あれこれ理屈をつけて解かりやすくしたつもりでも、怪しい雰囲気までは解消しなかった(怪しい雰囲気自体はもちろんあってもいい)。

絵を描く人はすべてのモチーフをちゃんと解ったうえで描くものだ、などと出来そうもないことを言うつもりはないが、こんなモヤモヤはだめ。よく分からないことを、わからないまま描いているから、見る側にもそう伝わっている。

一番奥に、子どもが一人立っている。それがこの絵のヘソかな。構成上、画面の遠近法の焦点にいる。左手前、右の二人と、見る人の視線はジグザグにこのヘソに至る(はず)。この仕掛けによって、多くの人はきっとこの子の顔を見たくなるだろう。計算式はよかったが、それぞれの要素がどれも曖昧。これじゃ魚は釣れないな。

青い柿

柿はよく絵の画題にされている。小中学生の図画工作、美術の授業からアマチュアの画家たちの制作まで、手に入りやすい画材で、しかもそれを食べてお終いにできるというおまけ付きだからなおさら。

でも、みんなが描くということは、それがありふれ過ぎているということでもある。どんなに上手に描いても、それだけではもうインパクトがない。高名な画家たちは美味しそうな熟した色の柿を避け、あえて青柿を描いた。日本画家の小林古径「青柿」などはそういったなかの名作のひとつだろう。

青柿をしげしげと見る人は、柿の生産農家や家族用の庭木として育てている人以外にあまりいないと思う。一般の人にとって、柿とは商品になってスーバーに並んでいるものであって、画家たちは逆に、商品になった(なってしまった)柿などに画題としての興味がなく、まだ手つかずの、それも商品価値のまったく無い「青い柿」にこそ、ナイーブな芸術の香気を見出した。
 一方、「アイスクリーム」「天ぷら」など、人の手で加工された「商品」を、今の若い人たちはむしろ「新しい画題」として正面から捉えている。コマーシャルアートとしてではなく、純粋なアートとして。「お弁当」とか「ラーメン」を画面いっぱいに描かれた作品を始めて見たころは「こんなものを描く気になるのか」という衝撃を受けたものだったが、今ではそれすら古典的な感じさえしてきている。

さて画題としての「青柿」はこの先どうなるだろう。伝統的画題のままやがて描かれなくなって終わるのだろうか。かつての画家たちが感じた「ナイーブな香気」を、わたしもまだ少しは感じる派なのだが・・。

石丸康生個展から

石丸康生個展会場ーギャラリーなつか(東京・京橋。18日まで)
作品の部分

石丸康生さんの個展に行ってきた。涼しいと思って出かけたが、台風23号の影響か、意外に蒸し暑かった。石丸氏は相変わらず?お元気で体力モリモリそうだった。相変わらず、というのは展示された作品たちから発するエネルギーが、前回に比べても少しも衰えていなかったから。

いつものように大きめの作品がずらりと並べられていて、一見単純な仕事のようにも見えるが、よく見ると実に繊細で、存分に時間をかけているのがよくわかる。

制作の動機には、第二次大戦時、日本軍の特攻兵器「人間魚雷-回天」の基地であった大津島の存在と、自身の成長期とが深く関わっているという。けれど、見る人はそんなことを知る必要はない。ただ素直に作品に対すればよい。

作品から感じるのは「傷」。痛みのイメージとかではなく、傷がそこにあること。あえて暴くように見せつけるのでもなく、あえて隠そうとするのでもなく、そこにある傷を見る。飽くことなく、また淡々とでもなく深く傷そのものに共感(しようと)する。そんな作家の姿勢、視線を感じる。