会話2

L:オレ、少し若返った?緑が増えたような…。

R:特には。

L:そ。希望的観測ってか。

R:ずっと寒いからなあ。枯れないだけマシだよ。

L:数年に一度の寒波だって。最近やたらに何十年に一度とか、聞くようになったな。毎日が一生に一度しかないんだから、そんなことに意味ないと思うけどなあ。

L:50年ぶりの大雪だから備えろって言われても、急に家を耐震化したり、雪かき用に筋肉つけるわけにもいかねえだろう?

R:気象や地震の研究者にとって、だな。あとで調査するまで、今回のことをよく覚えておいてくれってことさ。まあ、大変なことになるかも知れないから、逃げる用意だけはしろって。

L:そうか。でも、実際は逃げることさえできねえんじゃない?

R:そうなんだよ。逃げ道は雪で塞がってますよって言われるだけじゃあ。50年前の経験を活かして、自己判断せよってことだけど、その人たちはもういい歳だろう?今度は雨、それからまた大雪っていう予報だから、今のうちに逃げるのがいいかも。

L:どこへ?50年前に助けてくれた家なんか、もう無いぜ。

 

恵方巻き

「恵方巻き」はここ10年くらいだろうか、急速に社会に浸透し、おせちやクリスマス・ケーキ、バレンタインチョコと並ぶほどの季節定番商品になったようだ。

それが一方で、大量の食材廃棄をもたらしていると新聞に載っていた。

こういう数字には控えめな政府広報でさえ、日本だけで年間1900万トンの食料が捨てられており、これは7000万人が1年間食べていける量だという。そのうち売れ残り、賞味期限に近いなど、まだちゃんと食べられるのに捨てられる、いわゆる食品ロスは500〜900万トン。日本は食材の多くを輸入しているが、これらの数字を見ると輸入量のほぼ半分を捨てていることになるという。私たちの「もったいない精神」はどこへ行ってしまったのだろうか。

美味しいものは心を豊かにする。それは確かだ。けれど、それを独り占めするのではなく、出来るだけ多くの人と共有する方が、もっと豊かな文化を生み出すことにつながるだろう。食品ロスをさまざまな施設や介助の必要な人々に循環する動きが、一部ではあるがいわゆる先進国の中には出てきている。日本も今のうちに、個人や団体の善意に頼るだけではなく、その意を生かしたシステムをきちんとつくることを課題にすべきではないか。食べ物の確保はどんな人の心にもゆとりを持たせる。病気になっても、失業しても、ちゃんとした食事が出来る社会は、きっと豊かな想像力を私たちに還元してくれるに違いない。

遅延コミュニケーション

少しお腹の具合が…

2/1 関東に再び雪の注意報が出た。2/2 昼前にかけ、東京で3〜8cm、北関東で8〜15cmほど降ったらしい。わが家は先日の雪がまだ残っていたが、雪の前に降った雨で融ける分と相殺すると、どうやら融雪の方が大きいようだった。

翌早朝の宇都宮線のスレッドをみると、遅延、運休を期待していた人々のコメントがどっさり。社員が頑張って遅延しなければしないで、やはり恨み節。遅延でも殆どの場合原因がはっきりしているので、怒るコメントにも、謝る方にも一定のラインがあって、すれすれのユーモアを楽しんでいる感もなくはない。怒りのスレッドに、クスッと笑う余裕を共有しているらしいのが、同じ路線に乗り合わせる仲間意識が感じられて楽しい。

これらのスレッドを、ネット介在の、新しい「地域=路線」コミュニケーション形態ととらえればなかなか面白い研究対象になるのではないか。お互いに顔を知らないという現代性と、路線を共有するだけという「観念的」地域性。歴史的、心理的、地域・世界(地理)的な共通性と特異性とがきっとある。

「咎める、謝る」の場面は落語、小噺には限りなくある。ある意味、日本人の最も得意とする分野かも知れない。小学生に英語を必修化するより、こういうものを少しは教えたらどうだろう。「ぎすぎす」化の強まる社会への、誰にでもできるインフラになるのではないだろうか。