見る

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「見る」ということが(見る、だけでなく全てのものがそうだろうが)複層的な構造をしているということは誰でも経験的に知っている。複層的とは、「見る」にも、生理的以外に心理的な面など(むしろそちらの方がここでは問題だ)たくさん意味があるということ。味を見る、調べる、検査する、試行する、考えるなど、「見る」にもたくさんの意味があり、私たちはそれらの意味を意識的、無意識的に、切り替えて「見て」いるということ。

なあんだ、国語の問題ではないか、という人もいるだろう。けれど、私たちが絵を描き、絵を見る時、あるいは音楽を聴く時でも、音に反応し、色に反応し、作者を知ればその知見がまた反応にフィードバックし、その度にまた新しいものが見えたり、せっかく見えたものが失われたりする、現実の「見る」ことに直面するわけで、決してたんに言葉=国語の問題として、済ますことはできない。

そういう意味で絵を「見る」ことは(難しいということではなく)単純なことではない。描くこととほとんど変わらないのではないか、とさえ思える。描く方が、むしろ絵の具の取り扱いやその他のことに取紛れ、対象も画面もろくに見ていないことさえあり得る。

その上で、あらためて「単純に見る」ことの意味を考える。

気楽に描くのが難しい

鳥の習作

鳥を描いてみる。一度描きかけ、一年近く放ったらかしにしてあったものを、引っ剥がして捨てるつもりで描いてみた。このあと、どうなるかは自分でもわからない。

ひとつ言えることは、捨てると思えば気楽に描けるということ。線も乱雑だが、捨てると思えばのびのびと描ける。間違い、などというものもなくなる。物差しになる「正しさ」など不要なのだから。

問題はおそらく一つだけ。途中で、うまくいきそうになることだ。誰でも、自分の気に入るように描きたい、だろうと思う。私もそう。それがマズイ。それが基準になってしまう。そのとたんに、気楽でなくなり、のびのびと描けなくなる。

ずっと、捨てるつもりで描くことは難しい。いい加減に描くことも難しい。写真のように描いたり、人の気に入るように描くよりずっと難しい。うまくても、ヘタでもダメ。そんなこと、度外視して描く。それが難しい。

東京どんぶりピック

ノーベル賞受賞者は、日本では東大、京大出身者が主だから、そこだけに教育予算投下すれば安くあがる、などと言うバカなやつ(政治家も)がいる。呆れるというより、悲しすぎる。その人たちの支えとなる膨大な研究と協力なしで、成果など出せるものか。

日本中の大学から、優秀な研究者をさらに輩出するにはどうしたらいいかと考えるのが政治家の仕事だろうが、そのような政治家は票狩と権勢欲以外に頭の使い方を知らないようだ。

各社新聞の電子版を読むと、2020東京オリンピックへの予算は(予想通り」)どんどん膨らみ。現時点で、単純計算では2兆8100億円が関連予算として計上されているという。これは「大会に直接必要なもの」に限られ、行政経費などは含まれていないという。

やっぱりね。組織委員長の森元首相は「これをもとに新しい事業が展開できるなら安いものだ」という意味のことを言っているらしい。「できるなら」が曲者だ。具体性が何にもなく、「なら」という仮定の言い方で責任もない。けれどもカネはしっかり遣う(どんぶりとはこのことだ)。しかも、この予算はさらに膨らむと予想されている。

いつもの、公共事業という型枠、流し込まれる使い放題の甘い汁。オリンピックへの参加ではなく、開催したがるのは、そこに専用の甘い汁椀を作れるからだ。そこからほんの幾つまみかを、アジ塩のように国民に振りかけて、こっそりと次の、そのまた次の票まで買い叩く。この国の(愚民化)教育の成果だ。