靖國神社

売店にて
「晋ちゃんまんじゅう」その他

午後から急いで、東京・九段のイタリア文化会館へRobert Bosisio の絵を見に行った。とても質の高い良い作品だったが、たった4点しかない。画集が2冊置いてあり、それを見ても全体で30分もあれば十分。画集を売っていないかと聞いても、「見るだけ」とそっけない。じっくり目に焼き付けて帰る。

九段坂上の角まで来ると靖國神社が正面。一度も見たことがないので、せっかくだからと入ってみた。以外に若い女性が多いのにちょっと驚く。中に入っても、習い事とか何かあるのか、連れ立ってそれなりにきちんとした身なりの女性たちがかたまって座っていたりする。こちらは半袖の汗だくであちこちうろうろ。昨日は暑かったんだ。中国人が多いのも意外。「歴史認識」の海外研修か?

帰り際、チラッと売店をみると「晋ちゃんまんじゅう」麻生太郎の似顔絵のついた「タローカポネ・ラスク」。知ってはいたが実物を見るのは初めて。毒のようで、食う気がシネーナー。

見る

Apple

「見る」ということが(見る、だけでなく全てのものがそうだろうが)複層的な構造をしているということは誰でも経験的に知っている。複層的とは、「見る」にも、生理的以外に心理的な面など(むしろそちらの方がここでは問題だ)たくさん意味があるということ。味を見る、調べる、検査する、試行する、考えるなど、「見る」にもたくさんの意味があり、私たちはそれらの意味を意識的、無意識的に、切り替えて「見て」いるということ。

なあんだ、国語の問題ではないか、という人もいるだろう。けれど、私たちが絵を描き、絵を見る時、あるいは音楽を聴く時でも、音に反応し、色に反応し、作者を知ればその知見がまた反応にフィードバックし、その度にまた新しいものが見えたり、せっかく見えたものが失われたりする、現実の「見る」ことに直面するわけで、決してたんに言葉=国語の問題として、済ますことはできない。

そういう意味で絵を「見る」ことは(難しいということではなく)単純なことではない。描くこととほとんど変わらないのではないか、とさえ思える。描く方が、むしろ絵の具の取り扱いやその他のことに取紛れ、対象も画面もろくに見ていないことさえあり得る。

その上で、あらためて「単純に見る」ことの意味を考える。

気楽に描くのが難しい

鳥の習作

鳥を描いてみる。一度描きかけ、一年近く放ったらかしにしてあったものを、引っ剥がして捨てるつもりで描いてみた。このあと、どうなるかは自分でもわからない。

ひとつ言えることは、捨てると思えば気楽に描けるということ。線も乱雑だが、捨てると思えばのびのびと描ける。間違い、などというものもなくなる。物差しになる「正しさ」など不要なのだから。

問題はおそらく一つだけ。途中で、うまくいきそうになることだ。誰でも、自分の気に入るように描きたい、だろうと思う。私もそう。それがマズイ。それが基準になってしまう。そのとたんに、気楽でなくなり、のびのびと描けなくなる。

ずっと、捨てるつもりで描くことは難しい。いい加減に描くことも難しい。写真のように描いたり、人の気に入るように描くよりずっと難しい。うまくても、ヘタでもダメ。そんなこと、度外視して描く。それが難しい。