何でも描けばいいのかも

おつまみを描いてみた

「絵になるモノ」を探すと、つい古典的な発想になってしまう。自分だけモダンな構図、構成の絵になったと自己満足できても、一歩引いてみると、その感覚がどうしようもなく化石化している夢を何度も見る。

お酒を飲んだついでに、おつまみを描いてみた。現代のもの、たとえばステンレスとか半透明のプラスチックとか、「絵にならなそう」なものも、描いてみればそれなりの面白さも無くはないし、技術的な練習になら十分意味もある。あるものを絵画と呼び、あるものをスケッチと呼び、あるものをイラストとどこかで区別して、それぞれに別の考え方をする癖が、すっかり自分についてしまっている。

「どうやったら絵になるか」に頭を悩まし、教室でも同様に、そんなこと気にしない人々まで全員を悩ましてきた。「自分らしい絵を描きましょう」とか言って、そのための背景とか、構図とかの考え方など教えたりしてきたが、本当はそのことでかえって伝統的な考え方にはめ込んでいたのかもしれない。

眼に入ったもの、絵になってもならなくても、手当たり次第に勝手に描く。必要があれば今はなんでも調べられる。なんでもどんどん描けばいい。悩む必要も、悩ませる必要もなかったのかも。今頃になって、笑うしかないけど。

寂しい口笛

圏央道です。―希望ですか?それとも?ですか―ウォーキング中

なぜ人は歌うのか。わたし自身も誰もいないところで(たとえば運転中)何気なく歌うことはある。なぜか大勢の人の中にいるとき、場とは無関係に、声は出さずに心の中で歌ってしまうこともある。理由がありそうなときも無い時もあるが、結局はそのときの気分次第というしかない。そして、そのときの気分にぴったりの歌を知らないことを、時には残念に思ったりもする。

若い人たちはすごく音楽を聴いている(と感じる)。ある意味で音楽が彼らの日常を支え、励ましているからなのだろう。音楽は彼らの声でもあるのだ。衆議院選挙が近いこともあり、歌と言葉についてちょっとだけ想像を広げてみた。

言葉と歌の距離は、文学史的にはかなり近い。そもそもことばにリズムと音階を載せれば一応は「歌」のかたちになる。で、その歌詞をよく見ると、古代から現代まで政治的メッセージであることは少なくない。たとえばビートルズの「イマジン」。政治性を感じないという方がおかしいというほどのメッセージ性。歌は政治に近い―政治は論理的であるべきだとは思うが、(日本の)「政治」の言葉はそこからわざと、論理からも感覚からもずっと離れたところへ行こうとしているように見える。平俗的?に言えば「当選本位」の「キャッチフレーズ・オンリー」。つまりは「広告」だ。政治(のことば)が広告看板そのものになり下がってしまっている。―政治が音楽や美術などの芸術や、学問を軽んじているから尚更だ。

政治家が好んで取り上げる「文化」といえばせいぜいスポーツ。「東京オリンピック2020(事実は2021年)」期間中、某総理大臣がわざわざ官邸に記者を呼んで、金メダリストにお祝いの電話をかけるパフォーマンスを繰り返した。これを見て多くの日本人は、自分の股間を人前で何の羞恥心もなくさらけ出しているような、いわば21世紀の日本がまだサル(猿)の社会のままであるかのような精神的屈辱を味わわされたのではないだろうか。少なくともわたしは、ニュース画像中の得々とした彼の顔に、サル(猿)のマスクを重ねないでは正視出来なかった。新首相はまだマシかと一瞬思ったが、もう忘れかけていた「アベノマスク」の「生地の新調」に過ぎなかったので、やはり「アベスガサル芝居・第二幕」の幕開けだったのか、と腑に落ちた。

人はなぜ歌うのか。それは人はなぜ絵を描くのか、人はなぜ学問をするのか、と同じ問いだ。世界がどうあれ、日本の政治がどうあれ、わたしたちは若い人も、老人も、とりあえずは「明日も明後日もあるものとして」生きていく。明日のことは判らない、でも、明後日のことなら歌ってみたい。―――歌は自ずから・・・と書きかけたが、せめて明後日のために―寂しい口笛になってしまった。

展覧会の終わりと美術展のオワリ 

会場風景

銀座・ギャルリー志門でのグループ展「風土に生きるⅧ」展が16日終了しました。コロナ下、わざわざおいで下さった方ありがとうございます。わざわざお電話、お葉書など下さった方、ありがとうございます。

展覧会の期間中、六本木の国立新美術館で二紀展、独立展や前々回紹介した個展など、いくつかの個展、グループ展も廻ってみた。どれも力いっぱい頑張っている。そこに注がれる膨大なエネルギー、素材の量、資金。そして多くのあらゆる種類の犠牲。そして得られる小さな自己満足程度の喜びと、僥倖のような、ほとんど社会性の無い内輪だけの称賛。「健気」という以上にふさわしい言葉があるだろうか。

「わたしの個人的美術史では、美術の歴史はすでに終わっている」とずっと前に書いた。あらためてそのことを確認した。誰もが絵を描かなくなるという意味ではない。それどころか10年後には絵を描くことはもっと手軽になり、誰もが暇つぶしに描くようにも思う。終わっている、のは「もう付け加えることがない」つまり、美術史的には巻末まで来たということと、(少なくとも現代の日本的な)美術展という形式のこと。

少なくとも現代日本の美術展には個人的な犠牲(負担ではなく、あえて「犠牲」というほどそれ)が大きすぎる。日本独自の団体展という制度は、その犠牲の量を人数で割って小さくするための方法論であり、作家どうしが互いの傷を舐めあって生きる美術長屋もである。作家がのびのびと作りたいものを作り、自由に発表するという理想からは遠すぎる。作家になるということは社会から逸脱するという覚悟、社会的自殺の覚悟が要る、といっても過言ではない。家族まで巻き添えにして、たまさか運よく流行作家になれた人だけを見て、その犠牲的精神を格好いいと思うのは時代錯誤であり、それを強いる似たような社会的抑圧(たとえば女性の社会的地位)の風土と通底する。

いまはインターネットがある。インターネットがそれらの問題を一挙に解決するなどという妄想は、さすがに妄想家を自認するわたしも持たないが、最低でもその一部を軽減してくれる程度の力はすでに持っている。創作の厳しさ(努力)と身体的、社会的犠牲とを混同してはならない。創作の厳しさは、自分自身が解放される場所からでなけれ乗り越えられないと思うからである。