晨春会展―2

Gold-medalist in Olympic 2021 ( oil on canvas)

晨春会展が始まり、初日、2日目と連続で会場当番をした。観客は閑散だが、わざわざこんな時期に来てくれるだけあって、ほとんどの人が熱心に見てくれる。ありがたいことだ。「何が何でも見たいと思った」という人は、朝から晩までコロナ、コロナでくさくさしていた気分がスカッとしたといって帰っていった。それこそわたしたちの望んでいたこと。

せっかくコロナを忘れに来たのに、消毒、来場者カードの記入など「また、コロナか」と腹を立てた人もいると聞いた。その人の気持ちもよく判る気がする。他のいろんなイベント会場でのコロナ対策を参考に、わたしたちもそれにかなり気を遣った。コロナそのものより、「対策をしていない!」と細かく糾弾する「自粛警察」の巡回の方が怖かったのが本音だが。日本にはこの手の「警察」がやたらと多い。このブログは10年前の東日本大震災の直後に始めたが、当時も「節電警察」という語が巷に聞かれ、そのことについて書いている。今とまったく変わるところがない。

午後4時を過ぎるとほとんど人は来ない。会場をぶらぶらしながら自分の絵をじっと見る。自分の絵の後ろにある、自分自身のの制作風景を見る。そして10年前、30年前の自分と数年後の自分の制作風景を重ねて見る。よく見れば、1枚の絵にはそういうことが描かれている。会場のどの作品もそんな風景を持っている。メンバーはほぼ一日中冗談しか言わないが、誰もがそれぞれの風景を自分自身と重ねて見ている。そういうメンバーでなければ35年も続くわけはない。この会は特別な会なのだ。

ワクチン接種が進めば、来年の今頃はコロナはもう記憶の彼方になるだろう。大震災の時の節電騒ぎをもうほとんど忘れているように。でも、本当はわたしたちは深いところで傷ついている。あの時も絵を描いたり、音楽や芝居をやっている場合かと世間には冷たい目で見られ、実際そのような仕打ちをされた。大衆とはそういうものだ。芸術はそういう大衆に、とりあえずお茶をどうぞ、という仕事だ。その一杯で心の変化が起こることもあるだろう。それが芸術だ、とも会場をぶらつきながら考える。

晨春会(しんしゅんかい)展

Apple on the book 2021 F100 tempera

明日から、晨春会展が始まる。6月6日(日)17:00まで。昨年はコロナ禍を考慮して、東日本大震災の時でさえ開催してきた展覧会を初めて中止した。今年も中止するかどうか議論したが、いま、活動を継続すること自体が意義あるとして開催することにした。

ネットだけで公開することもできる。「見るだけ」なら写真の解像度次第では、肉眼より詳しく見ることも可能である。けれど、実物をその会場で見るのは、それらとはかなり違って見える。いや、感じると言った方が近い。それは簡単な理由からで、会場には会場の空気があるからである。会場の空気とは、作者と何かを共有する空気ということになろうか。会場に作者がいるから、ということではない。レオナルドの絵を画集で見ても凄さは感じるが、実物を生の眼で見ると、なぜか時空を超えて作者の息吹をほんの少しだが感じるのである。それが「空気」。同時代の作家なら、それがもっと強く感じられるのは当然である。

コロナ禍で多くの美術展、音楽会、芝居などが中止され、美術館、劇場、ホールも休館させられるなど、芸術が「不要不急」の代表のように扱われてしまっている。こういういい方は本来したくないのだが、あえて言えば、芸術こそ一番底辺で現代の社会を支えるものではないのか、ということ。会社員が通勤して、工場や会社を動かすことが現代社会の骨格であることに異論はない。けれど働く会社員にとっては、本物の歯車にされてしまっては働く意欲そのものが萎えてしまう。自分たちの子どもをただの歯車に育てたくもない。

「作品に出合って稲妻に打たれたように」感じたことのある人はどのくらいいるだろうか。きわめて少数に違いないが、そのことの意義は小さくなく、そのチャンスは多くはない。いわば一期一会。その機会を求めに行こうとすることが「不要不急」などであるはずはない、というのがわたしの「遠吠え」である。カッコつけたが、わたしの絵などわざわざ会場へ見に行くほどの価値もないという人のために、この絵を掲げてみる。

働きかた未改革

「宮代運動公園にて」  移動中チラッと見えた、気持ちよさそうな場所

「働く」ということはどういうことか。その「定義」をこれまでと変え、「新しい働き方」を志向する、というのが「働き方改革」ではなかっただろうか。コロナ禍でオンライン化が加速され、改革は進むはずだったのではないか。ろくすっぽ働きもしないわたしがいうのもなんだが、もっぱら時短とオンライン環境くらいが話題になるだけで、「働く」ということの意味自体はほとんど問われていないのではないか、と思う。

働く時間と方法という意味では、確かに文字どおり「働き方」はすこし変化(決して改革なんかではなく)したかもしれない。飲食店ではテイクアウト用の品を作るようになり、会社員の数%は会社に出勤せずに仕事ができるようになり、配達する人は一層忙しく、体力をすり減らすようになった。でも、これでは単に「働き方の変化」ではあるが、どこも改革になどなっていない。働かなければ生きていけない以上、働き方=生き方であり、そうであるならば、「どう生きるか」「どんな生き方をしたいのか」を考えずに「働き方改革」など、絵に描いた餅どころではない。

「働き方改革」の根本は「働く=お金を稼ぐ=時間・体力の提供」という等式を変えるということだろうと、わたしは思う。働く≠お金を稼ぐ、でもいいし、お金を稼ぐ≠時間・体力の提供でもいい。とにかく、この等式からチェンジすることが「改革」なのではないか、と考えるのである。会社が個人の上に在って、雇ってもらわなければ生きていけないという悲壮な発想を変えること。それが改革のエンジンなのではないか。

大きな会社に就職して「安心安全!な生活」のあと、悠々自適に海外旅行…なんて戦後の発想が今も年配の方を中心に、妄想として残っているのではないだろうか。どこかで「額に汗して」「世のため、人のため、会社のため」に「自己犠牲を顧みない」という、誤った「美徳」感をいまだにまき散らしているのではないか。それが子ども、孫に悪影響を及ぼしていることにさえ気づかないほど、耄碌した社会になってしまっているのではないか。「遊んで暮らせるほど世の中は甘くない」と教訓を垂れるのではなく、そういう社会になったらみんな楽しいんじゃない?という肯定感が、この奴隷根性に縛られた日本には今一番必要なんじゃないかな、と思うのだけれど。