「オリジナル」という「物体」

クレマチス咲く ペン、水彩

クレマチスをモチーフ用に2鉢買った。毎年咲いていた、大輪の、ビロードのような青のクレマチスが、なぜか今年は姿を現さない。散歩しながら他所のクレマチスもチラッと見たりするが、我が家のものが一番立派だったような気がして、かなり残念。

ここ2~3年、かなりCGスケッチや動画製作に時間を注いできたので、物理的な物体として手元に残る作品数はぐっと少なくなった。CGだって作品には違いないが、長年邪魔者扱いしながらもキャンバスやスケッチブックに描き残してきた感覚からすると、なんとなく(否、かなり)物足りない感じがする。
 紙に描いたからといって感覚的には特別どうだということもない。けれど、ここに確かに1枚在るという、安心感のようなものはある。お手軽だが、とりあえずは「オリジナル」って感覚だろうか。CGでも、NFTといった「オリジナル」作品を創ることは出来るが、手描き=オリジナルという等式には(時代の意味が変わっても)今でもなんとなく頼っている。単なる世代ギャップなんだろうか。

もし、「手描き=オリジナル」という等式がこれからも不変のものであるならば、これまで数十年も苦労して辿ってきたその不変の道から、わたしは少しはぐれてしまったことになる。この歳になって、やっとCGの世界にほんの一歩だけ足を踏み入れた程度だが、その時「この等式はいずれ意味を為さなくなる」と直感し、道を踏み外すことへの小さな覚悟があったことは忘れていない。

手描きによるオリジナルも、CGによるオリジナルも、社会的にはともかく、制作者個人にとっては実際はそんなに違わないものかもしれない。それにしても、いまだに現代の絵画の値段が数億円もするという現実を見ると、オリジナル=独り占め、という人間の物欲の等式の強さをまざまざと見る思いがする。

夢の中のペン

ポットと編み籠  (CGスケッチ)

夢の中で、小さな光るペンで何か描いていた。「これ、すごいペンだねー」とか驚きながら。

そのペンの中には既に立体があるのだった。VRのようなメガネは不要。そのペン自体が立体をなぞるのだ。数ミリ、数センチの凹凸に沿って、ペンを持つ手にその凹凸が直接感じられ、手がそれに誘導されるように前後左右する。すべすべやザラザラの材質感もそのまま。

たとえば、バナナの表面に絵を描くとする。ペン以外の何も手に持たず、なのに直接バナナの表面に描いている感覚、と言ったらいいだろうか。硬さ、弾力、重量感。夢の中では体験しなかったが、もちろん一周ぐるりと描けるに決まっている。

それでも、視覚的には一枚のキャンバスに描いているような気がした(夢の中では矛盾はつきものだ)。それは空間に浮いているようで、その立体感覚にもかかわらず、それ自体には厚みも質量もないような、しかも大半は目に見えないようなキラキラした、半透明?の「感覚」キャンバス。 もしかしたら、もうそんな製品ができていて、わたしが知らないだけなのかも…。

I’m happy, just now.

Apple-田園 (ほぼ終了)

ほぼ終了。筆を擱いたこの瞬間だけは解放感がある。これが夜なら一杯飲みたくなるところだが、今は昼だから同じ一杯でもコーヒーのほう。今日の夕方には冷めてきて、あそこがどう、ここをどう直そうかと考え始める。だからこの一瞬は貴重である。

描き始めてから、あしかけ1ヶ月くらい。わたしの場合、平均すると小品より大きな作品の方が早く仕上がるようだ。それはきっと事前の準備の有無による。小品は思いつきだけで描き始めることが多い(それはそれで良い点もある)が、たまにそれが途中で止まってしまうことがある。そうすると、永久に乾かないコールタールのように、何年もうじうじとまとわりつく(それも悪いとは言えないかも知れないが)。だから、とにかくいったんは終了まで最短距離で行きつく必要がある。そのうえでじっくり加筆するなり、あらたな作品にステップアップするのがいい。

ウクライナで戦争が起きている。そのさなかに、こんな大脳のしわが伸びきったような絵を描くなんて(しかも「田園」!)、同じ地球に棲み、同じ時代の空気を吸っているといえるのだろうか―もっと現代を象徴するような絵を描かなくちゃ―なんて焦ったりしていたが、それが現代なのだ、と最近は思う。
 家族を養うために他国へ人を殺しに行く傭兵がいる。いっぽうでその犠牲者を弔う仕事もある。爆弾や兵器を作る会社もあれば、その傷を治す薬を作る企業もある。いつでも学ぶ機会のある世界もあれば、一生教育に無縁な子どもたちもいる。それが世界なのだ。そしてそれらが深いところで、みんなつながっていることがやっと解ってきた。世の中に、他といっさい無関係なものなんて何一つないのだ。

自分ができることをやる。無理せず、でも誠実に。それがすでに難しいことなのだし。