押絵羽子板

スケッチ中

実際の年賀状には使わなかったが、デザインだけしてみた。モチーフの押絵羽子板は、ひょんなことから人を介して頂いたもの。埼玉県春日部市の伝統文化の一つとして有名だ。製作者の名は知らないが、なるべく実物に似せて水彩で描いてみた。

描いてみて驚いたのは絵師のデッサン力である。製品自体は一点一点手描きしているとは思わないが、少なくとも最初の絵は構図・構成も含め、誰かが描いたものだろう。

押絵羽子板は布などを立体的に貼りつけて作ってあるものだが、顔や指などは一応平面上(厚みのあるスチレンボードのようなもの)に描いてある。それに陰影で立体感をつけてある。伝統的な意匠に沿いながら、意外に(と言っては失礼だが)繊細で鋭く、かつ的確。
 陰影のグラデーションも丁寧だ。手馴れていてもぞんざいではない。そんじょそこらの観光土産品のレベルとはさすがに格段の差。確かにこれは伝統文化であると同時に、一枚の絵なのだというプライドを感じた。描いてみる機会が得られてラッキーだった。

一枚の羽子板には、木を育てる人から数えれば、かなりの数の職人さんたちが関わっているにいるに違いない。その人たちが全員(家族も含め)生活していくには、羽子板が高価で飛ぶように売れていかなければならない、と思う。羽子板の需要という現実を考えれば、廃業(と聞いている)もやむを得ない選択かとも思うけれど、こんな小さな部分にも、職人のこだわりと実力が込められている。伝統文化にちょっとだけ触れた正月だった。

モルドバの人

「モルドバの人」 紙、水彩、アクリル

最近何度か投稿した「顔に緑」の習作の一枚として途中まで描いたが、大晦日に洗い流してしまった。元旦、改めて描き直してみた。仕上げるとかの意識はなく、むしろ背景のマチエール(材質感)の方に重点がある。

モルドバはウクライナと南西部で接し、ともに黒海に面している。彼女の心情に思いをはせる。

アーティストの時代

「一週間で編集、アップロード」にチャレンジしてみました

日本はドイツとともに世界で最初に「資本主義を卒業する」国になる(可能性がある)、と予測する学者たちがいる。経済学説で有名なケインズが、すでに1930年に、資本主義は一つの過渡期であり、やがては経済成長のない社会、すべてのインフラが整い、豊かではあるが利益主義ではない、お金に大きな意味のない社会になる、と予測しているのだそうだ。経済学者の水野和夫氏の談をラジオで聴いた。

氏によると、現在のところそれに当てはまりそうな国は日本とドイツだけらしい。ということは、日本はアメリカ経済の尻ばかり追いかけているのではなく、自ら新しいビジョンを構築していかなくてはならないということになる。

水野氏は、そういう社会での3つのビジョン?を挙げていた。①近い ②ゆっくり ③寛容 の3つ。①近い、というのは少しわかりにくいが、要するに資本主義社会では「より遠くまで、より早く、よりたくさん」が価値観であり、そのための「競争」が前提だったが、資本主義卒業後の社会では、「身近なところで、ゆっくり、優しく生きる」ことが柱になる、ということのようだ。

それはまさに現代のアーティストの生き方そのものではないか。資本主義の社会ではアーティストは生きにくい(帝国主義、独裁体制では論外)。かつては(あるいは今も)アーティスト=貧乏が、世の常識だった。きわめて少しずつではあるが、アートの価値観が増しつつあると感じられるようになってきたのは、そういう社会が次第に現実化してきたことの証かもしれない。
 資本主義の一つの断末魔、それが今やあらゆるところで起き、それらが繋がり始めているのが、戦争というかたちなのだろうか。「核戦争でリセット」なんてのは痛ましすぎる。