「不要不急」とはなんだ

「薔薇に雨降る」

 「不要不急」とは、「急ぐ必要がないもの、必要そのものがないもの」という意味である。ほぼ、「無駄だ」と言っているようなもの。自分のことを言うのならともかく、他人の外出に対し「それは無駄だ」と言ったなら、場合によっては殴りあいになるほどの傲慢な態度とみなされるだろう。「不要不急」とは、ふつうは人が他人に言うべきことばではない。

 ところが現下の日本では、「不要不急かどうか」を「他人目線で判断せよ」と、暗に(時に露骨に)強制されている。話がすこし跳ぶが、「自粛警察」なるものがときおり批判される。しかし、批判の仕方がマスコミではなんと「行き過ぎた正義感」という扱い方だ。正義感だって?自分の尺度で、他人を脅すことを「正義感」と言っていいのか?一方的な狭い解釈にだけ人を追い込むような環境をすこしずつ醸成していく、農村的、村八分的、非近代的な「日本人」が彼らを駆り立てている。もう少し進めば、医師や夜間救急の救命士などは「必要至急」の筆頭格、それら以外はみな不要不急ということにさえなりかねない。かつての軍人以外はみな不要不急の人々だったように。

 「緊急事態だから仕方ない」。たしかに仕方なくなってしまった。けれど、今回の「緊急事態」は無策の結果、という面が小さくない。首相は「国民には厳しい要請」だと言っておきながら、なぜそうなったか、そのためにどんな手を打ち、緊急事態宣言がどのように推移するかの見通しさえまじめに語ろうとしない。都合のいい時だけ科学者をつまみ食いするばかりで、彼らと真剣に議論する気持を持ってさえいないように見える。外出自粛とGoToキャンペーン、会食自粛とGoToイートの間の整合性にも頬かむりしたままだ。

 毎度のように「丁寧な説明」「説明責任」と口では唱えるが、結局は「説明は控えさせていただく」の繰り返し。夜8時以降の飲食店閉店と言ったかと思えば、昼間の外出、会食も控えるようにという。飲食店はみな潰れろと言わんばかり。出勤する人の7割削減。どうやってそれを達成するのか、すべて国民に丸投げだ。それが菅政権の掲げた「自助」の真意か。それが「国民のために働く内閣」の実態か。それを何の批判もなく「コロナだから」とすんなり受け入れる国民の「物わかりの良さ」よ。

 菅首相が、口ごもりながら「国民健康保険の見直し」に言及した。自民党の一部には堂々と、憲法から「基本的人権」条項を抹消すべきだと主張する議員たちがいる。すべての国民の楽しみを戦争のために犠牲にさせたこの国の過去への真摯な反省も無しに、「不要不急」とは、コロナ禍のどさくさに紛れ、国民の権利はく奪のために計算づくで挿入された、「大本営的」官僚語だと私は怯えている。 

「時代」に乗り遅れる

「Hurry up a little bit(少し急いで)」水彩 F4

先日のブログに載せた絵を描いたとき、途中で何枚か写真を撮っておいたので、それをつないでみた。ここ半年は「動画」とその編集で頭いっぱいなので、とにかく途中経過はなるべく撮っておく。

ウォーキング中、イヤホンからの「乗り遅れない」という語が、耳に引っかかった。ある業者が「時代の波に乗り遅れないように○○をする」という、普通なら聞き流すような流れだったと思うが、「時代の波って、その波の中にいたら分かるものか」という、いつもの反発心が、ことさらにその言葉を「保存」してしまったらしい。

もしかして、私がいま動画(編集)で頭を悩ましていることも、「時代の波」に乗るためなんだろうか?私自身の絵画史では「絵画の時代」はすでに終わっている。何かの文章にそう書いた記憶もある。けれど今も自分は絵を描いている、絵画の時代はすでに閉じたのに?それは、「絵を描くことは私の宿命」だと感じているからだ。どんなに時代遅れになろうと、宿命ならば仕方ない、そう考えているからだ。ーそれなら、なぜいま動画なのか。

ひとつにはパソコンが手軽になり、「動く絵=動画」が自分にも手の届きそうなところにある(?)からだ。世は動画で溢れている。TV会社など専門業者でなければ手の届かなかった映像の世界を、若い人たちはスマホを使って、インスタグラム、YouTubeなど、日記を書くように気安く作っている。油絵具じゃなくたって、水彩絵の具じゃなくたって、自分たちの新しい絵の具で絵を描くよ。そういわれているような気がする。それなら私も新しい道具で絵を描いてみたい。けれど、そう思うこと自体時代の波に乗り遅れまいという心理なのか、いまは判断できない。(現状ではまだ全然ダメだが)、もう少し頑張れば私も「新しい絵の具」で、また新しい自分の絵を描けるのではないか、となんとか希望をつないでいる。

8月15日は「敗戦記念日」。

「アスレチック・フィールド」2020 テンペラ F10

「敗戦記念日」と書けば、必ずクレームがあるらしい。それだけで「反日」というレッテルが貼られたりする昨今だ。「負け」という語にはそれだけのインパクトがある。日本人は(多分他の国も大同小異だと思うが)「負けず嫌い」という言葉が好きだ。

「ハルウララ」という競走馬をご存知だろうか?主に高知競馬場を舞台にしたが、戦績は113連敗(0勝)。生涯獲得賞金は112万9000円。一勝もできなかったが、連敗ゆえに、ある種のブームを巻き起こし、2016年にはアメリカ映画にもなったそうだ。連敗し続けてもなお、毎回必死に走る姿が「負けず嫌い」の心をくすぐったのだろう。

敗者になることによって、初めてその人の人格や思想が現れると、私は考えている。その意味で、人は誰でも負ける経験が必要だ。負けることを知らない人間を、私は信用することはできない。「負ける」ことで、初めて本当の「知恵」が人に現れるとも思う。立派な負け方、美しい負け方というものはある。単純な例が高校野球。勝者以上に「輝かしい」敗者の例は枚挙にいとまがない。

それに単純に比較することはできないが、先の対戦での日本の負け方はぶざまであった。それは物量以前に思想が貧しかったからだし、そのことを戦後の現在も理解しようとしないことがその、そのぶざまをさらに拡大し続けている。敗戦を「敗戦」とすることで、その全体像を記録し、きちんと正面から向き合わない限り、人間らしい、「意味のある負け方」を獲得することはいつまでもできないと思う。「負けず嫌い」も、その上にたってこそ、美しいのである。