道は交わらない

ワイン瓶のある静物 (水彩)

7月になってもう七日にもなる。今日は七夕。でも、ちっともそんな気分にはなれない。星に平和をどれほど多くの人が願っても、どんなに多くの人が病気や災害のない世を願っても、ウクライナ戦争は起き、コロナは蔓延する。結局は自分で自分を護るしかない、そんなしぼんでいく気持ちが、逆にどちらかといえば攻撃的な機運の底辺に漂っているのではないか、そんな気がする。

アメリカだけでなく、デンマークでさえ銃の乱射事件。いつ、どこで同じようなことが起きても不思議ではない時代になった。もし銃規制がアメリカ並みだったら、日本でも乱射事件は日常茶飯事だろうと、日ごろのニュースを見ても想像できる。

アートはどうなんだろう。そもそもそんなものは人々の眼中には映っていないようだ。やっぱり、人はモノが欲しいのだ。カネが欲しいのだ。ケンリョクが欲しいのだ。残念ながら、欲望の一本道は延々と続き、道は交わらない。

たった今、BBCの臨時ニュースで、ジョンソン首相が辞意。これでウクライナ戦争の方向がだいぶロシア優位になるだろう。ロシアが歓迎のコメントを出した。

1000回視聴されました。

「クロワッサンを描く」をアップロードしました。編集にはいつも苦労しますが、今回も何カ月もかかってしまいました。それだけ苦労しても一瞬で忘れてしまう、この旧時代の「脳ミソ」が「残念の素」。悔しいが、他にうまい使い道はないものかと考えている脳自体がもそもそも「残念の素」なのだから、推して知るべし。

昨夜遅く、YouTubeにアップロードしようとしたら「1000回視聴されました。」と笑顔マーク付きの表示が出ていた。この1000回は一本の動画に対してではなく、わたしがアップしたすべてのコンテンツの合計。でも正直なところ、自分なりに「えっ!凄いじゃん」と思った。皆さん、見てくれてありがとう。この程度の動画に、計算するのも嫌なほどの時間を費やし、「自分はまったく無意味なことしてるんじゃないだろうか」という不安に悩まされる毎日、少しだけでも見てくれた人がのべ1000人いるっていう数字は、そのストレスをいくらかは解消してもらえた気になるんです。

単純計算すると、昨年9月 YouTube に初投稿して約10カ月だから、1000÷10=100/月ということになる。平均すれば毎日3人以上、わたしのビデオを見てくれたことになる。毎日3人に(たとえ既知の人でも)あらためて自分のことを知ってもらう機会なんて、普通の生活で、あるだろうか? 1つのコンテンツだけで数万回、100万回以上の再生回数のある「超」人気コンテンツなど、わたしもたまに見るが、可愛い子猫があくびをしているだけだったり、ドジな人があほらしい失敗をしたとかの、他愛のないシーンの投稿だけだったりすることも少なくない。それでもそれは視聴者に癒しとかリラックスとかの、何らかの価値を与えているのだろうと、動画投稿を始めてから思うようになった。それまでは、それらは「無意味ではないが無価値」なものとしかわたしには映っていなかった。

日本ではあまり感じないが、(オンラインで見る世界だけでも)それだけ多様な価値観があるということだろう。GAFAを筆頭とする商業的な思惑を誰しも根底に感じつつ、誰もが伝えたい(共有したい)ことを伝え、誰もが欲しい情報をできるかぎりストレートに受け取ろうとする時代。そういう時代になってきたんだなあと、始まったばかりのわたしのYouTube体験を通じてそう思う。

「親ガチャ」って嫌な言葉

「ガチャポン」とか「ガチャガチャ」とかいう商品がある。たくさんある中のどれかが買えるが、買う側は「これ」と選ぶことが出来ず、そのうえ出てきた商品の中に何がはいっているのかも、開けてみるまでは分からない。これをもじって、子どもが親を選べないことに引っ掛けた語が、「親ガチャ」らしい。

確かに子どもは親を選べない。「金持ちの子に生まれたかった」「頭のいい両親のもとに生まれたかった」「美男美女の両親だったらよかったのに」という意味で使われるようだが、「こんな親で申し訳ない」と親である自分を卑下した言い方の方が多いらしい。いずれにせよ、きわめて不愉快な語というか、おぞましく、その語を発する本人だけでなく他人をも深く傷つける語である。

ここには明らかに人間の上下、差別意識が染みついてしまっている。髪の色、肌の色だって選べないし、先天的な病気や、それらに罹りやすいかどうかの体質だって選べない。生まれる国だって、生まれる時代だって選べない。なのになぜ「親」なのか。親ですべてが決まるほどダメな社会の方こそ問題にすべきではないか。金持ちでなければ幸福に暮らすことはできないのか。いくら以上お金があれば幸せになれ、いくら以下なら不幸なのか。「こんな親で・・・」という前に、自分を生み育てたその親はどうなのだ。そのまた親はどうなのだ。

こんな、ただひたら人間そのものを侮辱する語は滅多にない。殺人犯にだって、それなりの事情はあるかもしれない、くらいのことは、普通の人間ならたとえ一瞬でも心に浮かぶだろう。なのに、この語には一切そういうものがない。一見コミカルな語にみえて、実は笑いなどどこにもなく、ただただ侮蔑的で、しかもそれが自分自身に向けられているのだから救いようがない。あゝ嫌だ。