イチロー

「どんな生き物も、いつもわたしたちの想像を超える」  水彩

野球のイチロー元選手が、日本人として初めてアメリカの野球殿堂入りをした、というニュースが日本中に流れた。それについてわたしがつけ加えられることは何もないが、ひとつだけ、「自分にも関わること」として書いておきたいことがある。

わたしがイチロー氏を尊敬するのは、彼の成績が超人的だから、ではない。自分自身をとことん見抜いていく我慢強さと、ある種の「精神の弱さ(あるいは強さ)」とを、彼独自の思想によって融合させたことにある。野球殿堂入りへの投票では満票に1票足りなかった。そのことについて「良かった。自分に足りないものがあるということはいいことだ」と語った言葉にも、そのことがはっきりと表現されている。そして「これからが大事だ」。いかにもイチロー氏らしい、極上のコメントである。

自分は弱い、他の人に及ばないところがたくさんある、と気づく「(気の)弱さ」が彼の「繊細な強さ」の底辺にある、とわたしは常々感嘆してきた。彼の素直な感性なのだろう。そしてそれを「何とか人並みに(少なくとも「あいつらより上に」などと思い上がってはいなかったに違いない)」の努力をたゆまず、人の意見は参考にはしても、結果はすべて自己責任とする「イチロー的」思想を胸の中に育て上げ、結果としてあの高みに達したのだと思う。一つ一つは誰でも少しはできること。けれど、ほとんどの人が途中でサボるか諦めるかの二択になる。

たとえばイチローを有名にした、独自考案の「筋トレマシーン」がある。当時は、もともと体力に優れた米国などの選手たちにとって、筋トレなど、いくらトレーナーに説かれても心底から必要性など感じられていなかった。けれど、日本人の中でさえ体格の大きい方ではないイチロー氏は、渡米一年目にしてすぐ好成績を残しながらも、心の中では米国選手との体力差を肌で感じたのに違いない。「今と同じことが明日も、来シーズンも出来るのか」、そんな不安がぬぐえなかったに違いない。そして、選手や米国マスコミからの冷やかしや嘲笑を浴びながらも、黙々と筋トレマシーンに向かうしか選択肢はなかったに違いない。走ること、投げること、考えることのすべてにおいてそれは続けられた。
 そして身に着いたのは筋力、体力以上に、他人がどう言おうと自分の感性を信じ実行する、という「精神の強さ」だったとわたしは思う。それがわたし自身と比較しての、(比較はわたし個人にしか意味がないが (^-^;)イチロー氏の偉大さだ。

「品格」の使い方

「アンスリウム」  水彩

トランプ氏が第47代アメリカ大統領に就任した。一期措いて二度目の就任はアメリカ史上二人目(もう一人は第22代、24代のクリーブランド大統領)。昨年10月の大統領選挙でのハリス氏に対する勝利以来、バイデン現大統領からすでに政権が移行したかのように、彼の一言一句が注目を集めてきた。

就任演説の内容をサマリーで見た。就任の直後から、準備していた「大統領令」などに片っ端から署名。いかにもトランプ氏好みの演出だが、確かに何事にもへっぴり腰のバイデン氏にはできない芸当で、大して歳も変わらないのに、「全然違う」感をアピールするのには、願ってもないタイミングだった。狙撃事件といい、「運に恵まれた」大統領であることを、アメリカ人に対してだけでなく、世界中に印象づけることもできた。

トランプ氏の言動とそのタイミングには、世界中がオタオタしている感じだ。実際そんなことはないのだろうが、いわゆる “先進国” では政治家の大半はエリート層であり、経済的にも恵まれた階級の人々だ。自分たちと同質のエリートであるはずのトランプ氏が、まるでジャンキーのような言い方をすることに、“貴族階級” の人々が戸惑っている、そんな感じである。たとえ戸惑っても “貴族階級” である彼らは結局自分を応援するしかない。勝つためにはそれ以外の人達、つまり “それ以下” の人々の気持を掴むのが鍵だ、というのがトランプ氏の戦略なのだろう。
 「品格を一段落としてみせる」というラフな戦略。民主党はすでにエリート意識に乗っかっているためにその戦略をとることが出来なくなった。彼に対抗する多くの人々にもそれは解かっていただろうけれど、彼のように声高に “下品な言い方” をしてみせるだけの強さがなかったのだろう。

「品格を一段落とす」ことで大衆的に迎合する。この言い方では、大衆とは下品なものだ、と言っているようにも聞こえる。 “炎上商法” ではないが、大衆は往々にして反抗的、非道徳的、非常識的なものに惹かれる傾向がある、と言い換えよう。トランプ氏はそこを冷静に見極め、一見過激に表現する。冷静な商売人ならではの計算と根性?がある、ように見える。ただ、その戦略自体が少々古めかしい感じがするのは、彼の趣味にもよるのだろうが、たぶんそういうしたたかと過激さの両方をもつリーダー像そのものが、すでに過去形である、ということでもありそうだ。

日の温みが恋しい

「日差し」 水彩

AIが登場して、世界のビジネス環境はここ数年でさらに大きく変わると言われている。わたしは “世間” の端っこで、中心からかなり遠いところで生きているが、それでもその風を感じるくらいだから、社会のど真ん中で生活している多くの人々には(なかなか直接目に見えるかたちにはならなくても)相当大きな影響があるのは間違いない。

極端なことをいうと、「生きているのが嫌になる」という人が世界人口の三分の一とか、半分くらいになる、そんな世界になるような気がしている。

もちろん、企業やある人々(ビジネスと言ったけれど、一般の会社員と言うような意味ではなく、ほんの一握りの経営者かそれに近い人々、そのような人々)にとってはなくてはならないツールだろうし、便利、快適、環境、あらゆる意味で「神器」となるだろう。
 けれどほとんどの人にとっては、「便利になったなあ」とぬくぬくしているうちに、真綿で首を締められるように、ゆっくり?「不要なヒト」に分別されていく、そんな世界がとうとう来てしまったのではないか。個人だけでなく、企業、業種、国単位でも、そのような “淘汰” はもっとストレートに眼に見えてくるはずだ。どんなに「必死に」頑張っても、そんなことに何の価値もない厳しい世界。それが80億のヒトを抱える世界。
 パンドラの箱は開いてしまった、と前にもAIのことを書いたけれど、その状況はさらに加速していると感じる。幸も不幸も含めて、AI出現以前に戻ることはもうない。

日本人の平均寿命が80歳を超えたのはだいぶ前だ。だんだんそんな歳に近づき、そんな世界を目の当たりにする前にどうやら寿命を終えられそうなのは、幸せと思うべきなのかもしれない。まだ年賀状が机の上に乗っているうちなのに、そんなことを考えてしまう。