九州の豪雨災害

「無題」 ペン

8月10日から熊本から長崎を中心に、九州北部から山口へと1~2本の線状降水帯が貼りついたようになり、豪雨災害が発生しているというニュースが途切れない。少し前にも同地域から山陰にかけて、また北陸、新潟などの日本海側にも大雨があったばかりだ。

経験と対策は蓄積されている。ただ、自然というものは、時に人間の努力のはるか上を行く。
 これだけ毎年のように災害に晒されるなら、どこかもっと災害の少ない県などへ移住する人が増えそうな気もするが、現実はそうではない。学校とか仕事とか、いろいろ事情があるには違いないけれど、結局地域に対する愛着のようなものがそれを上回っているのだろうと思う。

わたしはそうした心情を理解したいと思うけれど、一方で不憫であるとも思う。わざわざ苦労する必要などないからだ。災害対策においては、つい予算と効率ばかりに目がいきそうだが、こうした数字に出にくい心情なども、数値化、視覚化する研究、制度がもっと必要だと思う。

津波、41.2℃

「春日部風景」 ペン

昨日は朝から一日中津波警報に振り回された。というのは言い過ぎだが、実家が太平洋側の海辺かつ川の近くだから、スマートフォンの警報音が鳴るたびに心配した。カムチャッカ半島東岸にごく近いところを震源にした、マグニチュード8.7の巨大地震による津波。

小学生の頃、何度か津波を見に海岸へ行ったことがある。大人が「絶対海辺に行ってはいけない」というかいわないうちに飛び出して行った。危険なことは知っているが、普段の波と比べ、どのくらい巨大な波なのか、どうしても実際に見たくてたまらないのだった。そして「津波風」を体感した。波が壁になって空気を押してくる、それが強い風になって吹きつけてくるのを初めて知った。良くない行動だが、映像では伝わらない体感が今もある。

兵庫県丹波市で41.2℃の国内最高気温を更新したのも昨日。津波も日射も人間の力の及ばない、自然の一部である。一方で、観測網が設置され、震源や地震の大きさ、津波のあるなし、警報システム、潮位の予想データ。人工衛星による雲の動きや各地気象データの収集と解析、世界各地との気象状況の共有などから、明日は何度くらいになると予想できるまでになってきた。自然を変えることはできないが、自然の力をどう読み、どういう対応が可能なのかは人知の問題であり、解決への選択肢も、少しずつだが着実に進んできているのも事実だ。

日本は「災害大国」と自称している。いつの政権でも、そのために「万全を期す」と言う。けれど、いまだに「災害省」のような、専門の担当省がない。何かあれば自衛隊、だが、それは自衛隊本来の任務ではない。災害専門のシステム、そのための機構、機材開発、避難のシステム、設備の適正配置など、自衛隊や自治体におんぶするのではない、根本的な機関が必要だ、と言っていたのは石破氏本人ではなかったか。「内閣の対応チーム」レベルでは無理なのだ。今の政権で、ぜひ作って欲しいものだ。

パイナップルを描くと、kさんの見事なパイナップルのスケッチを思いだす

夕方になると虫の声が日増しに大きくなってくるのを感じる。台風もすでに9号まで日本に通過、接近してきた。俳句では虫も台風も秋の季語。一日中クーラーを効かせた家の中にいると蝉の声も聞こえなくなるし、聞こえなくなれば関心も失せていく。人間が次第に自然の感覚を失っていくのを文明の進歩と呼ぶならば、確かに進歩中なのだろう。

虫を毛嫌いする人は少なくない。皮膚をかぶれさせる毒のある虫もいるし、蚊のように血を吸ったりする虫もいるからだが、多くの虫は人間にとっては害のない虫だという。それどころか、地球の生命史を見ても、虫(虫イコール昆虫ではない)を食用することで、より大型の生き物を育んできたことが明らかにされている。虫の存在を無視しては現在の人類の今はない、といっても過言ではないのである。虫が毛嫌いされるのは(実はわたしも苦手であるが)、 単純に触れる(触れ合う)機会が少ないからだろう。

子どもにとって、虫、特に昆虫はスーパースターである。最近は滅多に見ることは無いが、日本でも戦後しばらくまでは蚤(のみ)がどの家にもいた。蚤の跳躍力は富士山頂上まで、十数回のジャンプで届いてしまう凄さ。蝶の羽ばたきは一見ひ弱そうに見えるが、一万メートルの雲の上を、海を渡る強さも持っている。カブトムシを人間サイズにすれば、象のパワーなど物の数ではない。ホバリングも水平飛行の早さも自由自在のトンボも、子どものあこがれのパワーを持っている。しかも軽量で無駄がなくカッコいい。それらが、どれだけ科学や技術の発展に貢献してきたか(いまや日本文化のシンボルともなった「アニメ」においても)。ノーベル賞を100個あげたくらいではとうてい追いつかない。

本当に賢い人々はそうした虫(植物も)の能力をリスペクトし、それがどうやって発揮されるのか、偏見のない眼で観察、実験、応用してきた。言い換えれば、それはそのまま子どもの視点の延長だ。いまふうの言葉で言えば、子どもはあらゆるイノベーションのスタートアップに違いない。
 少子化対策などと称し、単に人口増など経済的数字としか捉えられない視点では、いずれ虫の餌になるしかないのも、止むを得まい。