ゼレンスキーは偉い

          「モデルスケッチ」  水彩 F10

2/28、ゼレンスキー氏とトランプ氏がワシントン、ホワイトハウスで会談した。結果は “口論” になり、レアメタルを巡る交渉での調印は棚上げになった、と報じられている。

久しぶりにリーダーたちの本音がぶつかり合う映像を見た気がする。ウクライナの人々は多く英語が堪能だが、ゼレンスキー氏もほとんど通訳を必要としない英語力も立派。会談は物別れに終わったようだが、彼が(自分のためでなく、当然だが)ウクライナの立場を譲らず、主張する姿はウクライナ国民からの高い支持を得たという。いま彼以外世界の誰が、トランプ氏に媚びずに堂々と自分の意見を言えるだろうか。

トランプ氏を見る限り、アメリカの為なのか、自分の為なのかはっきりしないところがある。プーチン氏に至っては自分個人の野望のためとしか言いようがない。世界のリーダーと言われる人の中には、多かれ少なかれ、国益に自らの利益を上乗せしている感が見え隠れしないでもない。しかしゼレンスキー氏には個人的な利益感は全く感じない(豪勢な屋敷を買ったとか、ロシア発のプロパガンダはウクライナ国内でも結構あるらしいが)。彼はこの会談で、少なくともウクライナ人の記憶に残る人となったに違いない。

しかし現実は厳しい。既にトランプ氏はウクライナへの武器輸送を、この会談以前からストップしているという情報があるが、戦争は現在も続いている。まだまだ続くだろう。アメリカの武器と経済支援がなくなったら、ヨーロッパの支援だけで戦い続けることは難しいかも知れない。トランプ氏は何度も、ロシアへのウクライナの譲歩を口にしてきた(ロシアからの譲歩は求めずに)。ゼレンスキー氏にも「譲歩」の一語は常に頭にあったはずだが、トランプ氏に媚びてウクライナ国民を辱めることはしたくなかったということだろう。政治には素人と言われたゼレンスキー氏だったが、そのことがかえってリーダーはかくあるべし、という姿勢を示すことになっている。

ドサクサまぎれ

       「青い石を掴め」2025  ミクストメディア

アメリカのトランプ大統領が、自分が就任したら「24時間で(ウクライナ戦争を)終わらせる」、と半分ジョークのつもりで言った(はずだ)。そんなのを真に受ける人など世界のどこにもいない、と思っていたが、それをメディアが書き立てた(もちろん本人はそれを別の意味で意識していただろうが)。それを多少は気にしたか、6ヶ月くらい、と言い直したから、さらにマスコミが「発言が後退」と騒ぎたてた。トランプ氏は「この野郎」とでも、メディアに対して思ったのだろう。

もともと大好きな(彼は「独裁者」が好きなようだ)プーチン大統領と二人だけでウクライナ戦争の(一時)停戦を実現させようとしているようだ。「6ヶ月以内を目標に」。「口だけでなく、実際にやった」とメディアに鼻を明かして見せたいのだろう。もともと彼はメディアの人間でもあったから。

けれど、それだけでなく、彼は基本は商人である。その商人根性まる出しの行動が、ウクライナに「レアアース」をよこせ、というドサクサ紛れの要求だ。いわゆる「ミンスク合意」には頬かむり、まるで100%善意であるかのような支援を装ったままでの要求は、ほとんど「火事場泥棒」的だとわたしには思われる。
 一方、このバカげた戦争を始めた張本人であるプーチン氏には何一つ要求しないどころか、独裁者好きらしい「ご丁重な」扱い。一方のゼレンスキー氏に対しては、最初から「優秀なセールスマン」などと、上から目線である。

 そういう行動がいかにアメリカ自身を貶めているか、彼の掲げる Make America Great Again (MAGA)にも矛盾しているのは多くの人々の指摘するとおりである。西欧側が反発するのは当然(チェコやハンガリーのように、反発に反発する国もあるが)だが、それにもそれぞれ “別腹” があって、結局は「自分たちさえよければあとはどうでもいい」という、本来の欲望が見え隠れする。もうこれ以上書く気を無くしそうだが、そういう意味では、ストレートに「モノをよこせ」というアメリカ、ロシアの方が、ケダモノらしく正直なようにも見える。

イチロー

「どんな生き物も、いつもわたしたちの想像を超える」  水彩

野球のイチロー元選手が、日本人として初めてアメリカの野球殿堂入りをした、というニュースが日本中に流れた。それについてわたしがつけ加えられることは何もないが、ひとつだけ、「自分にも関わること」として書いておきたいことがある。

わたしがイチロー氏を尊敬するのは、彼の成績が超人的だから、ではない。自分自身をとことん見抜いていく我慢強さと、ある種の「精神の弱さ(あるいは強さ)」とを、彼独自の思想によって融合させたことにある。野球殿堂入りへの投票では満票に1票足りなかった。そのことについて「良かった。自分に足りないものがあるということはいいことだ」と語った言葉にも、そのことがはっきりと表現されている。そして「これからが大事だ」。いかにもイチロー氏らしい、極上のコメントである。

自分は弱い、他の人に及ばないところがたくさんある、と気づく「(気の)弱さ」が彼の「繊細な強さ」の底辺にある、とわたしは常々感嘆してきた。彼の素直な感性なのだろう。そしてそれを「何とか人並みに(少なくとも「あいつらより上に」などと思い上がってはいなかったに違いない)」の努力をたゆまず、人の意見は参考にはしても、結果はすべて自己責任とする「イチロー的」思想を胸の中に育て上げ、結果としてあの高みに達したのだと思う。一つ一つは誰でも少しはできること。けれど、ほとんどの人が途中でサボるか諦めるかの二択になる。

たとえばイチローを有名にした、独自考案の「筋トレマシーン」がある。当時は、もともと体力に優れた米国などの選手たちにとって、筋トレなど、いくらトレーナーに説かれても心底から必要性など感じられていなかった。けれど、日本人の中でさえ体格の大きい方ではないイチロー氏は、渡米一年目にしてすぐ好成績を残しながらも、心の中では米国選手との体力差を肌で感じたのに違いない。「今と同じことが明日も、来シーズンも出来るのか」、そんな不安がぬぐえなかったに違いない。そして、選手や米国マスコミからの冷やかしや嘲笑を浴びながらも、黙々と筋トレマシーンに向かうしか選択肢はなかったに違いない。走ること、投げること、考えることのすべてにおいてそれは続けられた。
 そして身に着いたのは筋力、体力以上に、他人がどう言おうと自分の感性を信じ実行する、という「精神の強さ」だったとわたしは思う。それがわたし自身と比較しての、(比較はわたし個人にしか意味がないが (^-^;)イチロー氏の偉大さだ。