「オリジナル」という「物体」

クレマチス咲く ペン、水彩

クレマチスをモチーフ用に2鉢買った。毎年咲いていた、大輪の、ビロードのような青のクレマチスが、なぜか今年は姿を現さない。散歩しながら他所のクレマチスもチラッと見たりするが、我が家のものが一番立派だったような気がして、かなり残念。

ここ2~3年、かなりCGスケッチや動画製作に時間を注いできたので、物理的な物体として手元に残る作品数はぐっと少なくなった。CGだって作品には違いないが、長年邪魔者扱いしながらもキャンバスやスケッチブックに描き残してきた感覚からすると、なんとなく(否、かなり)物足りない感じがする。
 紙に描いたからといって感覚的には特別どうだということもない。けれど、ここに確かに1枚在るという、安心感のようなものはある。お手軽だが、とりあえずは「オリジナル」って感覚だろうか。CGでも、NFTといった「オリジナル」作品を創ることは出来るが、手描き=オリジナルという等式には(時代の意味が変わっても)今でもなんとなく頼っている。単なる世代ギャップなんだろうか。

もし、「手描き=オリジナル」という等式がこれからも不変のものであるならば、これまで数十年も苦労して辿ってきたその不変の道から、わたしは少しはぐれてしまったことになる。この歳になって、やっとCGの世界にほんの一歩だけ足を踏み入れた程度だが、その時「この等式はいずれ意味を為さなくなる」と直感し、道を踏み外すことへの小さな覚悟があったことは忘れていない。

手描きによるオリジナルも、CGによるオリジナルも、社会的にはともかく、制作者個人にとっては実際はそんなに違わないものかもしれない。それにしても、いまだに現代の絵画の値段が数億円もするという現実を見ると、オリジナル=独り占め、という人間の物欲の等式の強さをまざまざと見る思いがする。

画材・技法のスキルについて

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ここでの画材というのは油絵具、水彩絵の具とか、紙、キャンバスといった描画材料のこと。YouTubeなどを見ると「いかにもプロ」的な高度なテクニックを駆使した作例がいくらでも出てくる。それを見て一生懸命勉強している人もたくさんいるだろうと想像する。わたし自身もその一人である。

画材や技法などについての知識が増し、使いこなせるようになれば確かに表現の自由度は増し、人目を惹くポイントも作れるようになる。コンクールなどは審査員自身がプロの表現者だから、つい高い技術レベルを求める方向になりがちで、そうした中で選ばれた作品を通じて観衆の意識も審査員たちの美意識に追随していく。もちろん展覧会の大きな意義として「啓蒙」の機能があるのだから、それで良いわけではある。

でも、プロになろうとする人は別として、絵を楽しみたいと考える人は、画材や技法についてあまり専門的にならない方が良い、という考えがどうもわたしの心の中で広がりつつあるようだ。知識、技術の向上が悪いはずはないけれど、、それもひとつの見方、方向性であって、それとは違う、ものの見方もあるよね?と。一つの画材、一つの技法のエキスパートになるには相当の努力が要る。その過程でたんに知識、技術だけでない何かを体得することが少なくないことも知っている。それでも、、、、せっかく学んだ知識、技能が、一方で自分を限定する力、想像力を硬化させてしまう力として、時にはマイナスにも働くこともある、ということを、ちょこっと頭の隅に置いておく方がいいかも、と思うのである。

絵を楽しむためには少し下手な方がいい、などとうそぶきつつ、わたしは絵画のテクニックを人に教え、もっと上手くなるようにアドバイスもする。けれど、必ずしも矛盾とも思わない。なぜかというと、絵を描くにも最小限の知識、使いこなしができないと、それ以上の経験ができにくいからである。海外で一人旅をすると多くの経験を得るが、それには最低限の知識や語学力が必要なのと同じである。だからといって、旅行の引率者や語学の専門家になるレベルまで勉強することとは別の話だということ。

でもまあ、専門家になればなったで、もっと高い(深い)愉しみというものもあるには違いないから、下手な方が楽しめるなどと言うのは、できない人(わたし)の負け惜しみの理屈なのかもね。

Apple in landscape(風景の中)

風景の中の Apple (アイデア)

目覚め前、ココシュカのポスターの夢を見た。2019年5月の「ウィーン・モダニズム」展を、大阪の植松君と一緒に見たときの絵の夢だ。もうすっかり忘れていたのに、何の前触れもなく、すっと夢の中に現れた。記憶が薄れないうちにと、とりあえず描きかけの100号のキャンバスに「バーチャル加筆」してみた(もちろんココシュカのポスターの格調はずっと高い)。

ここ1週間ほど、制作にあたって足踏み状態だった・・・方向は決まっている―描き方もほぼ決まっている―「でも具体的なイメージが湧いてこない」―イライラしながら、別の小さな絵を描いたり、アトリエの細々した片付けや作業をしながらずっと考え続けていた。が・・・何も湧いてこず、少し焦り始めていた。

オスカー・ココシュカは20世紀、たぶん「表現主義の画家」とされているだろう。オーストリアに生まれ(最終の国籍は英国。スイスにて没。クリムトやシーレなどとともに「ウィーン分離派」の運動にも参加し、目覚ましい発表をしている(年譜から初めて知ったが、バウハウスでも教鞭を取ったことがあるらしい)。けれど結局はグループに与せず、自分ひとりの世界を歩んだ人である。
 正直に言うと、彼の絵は今もわたしにはよく解らず、決して好きなわけでもない。それでもなぜか作品の「重さ」のようなものが、ずっとわたしを離さなかった。―それから3年経った今朝になって忽然とそれが夢枕に立ち上がるなんて。―夢の啓示を忘れないよう、すぐ二階に跳び上がって展覧会の図録を捜索した。

夢の中で、「これだよ!」と叫んだような気がする。時計を見ると6時前。寝たのは1時半頃だから、睡眠学的にはある種の「神がかりの時間帯」らしい。「神(がいるならば)がアイデアをプレゼンしてくれた。これを活かさなければ、文字通り罰が当たる」と思いながら寝具を跳ね除けたのだった。