熱すぎる「柿」

「柿の習作」  水彩

そろそろ秋めいて(欲しい)。そんな願いをお天道様はちっとも聞いてくれない、なんてグチを言っている間に、ちゃんと秋は忍び寄ってきて、自然はすでにその先の冬にもちゃんと備えている。出来てないのは「お天道様はちっとも・・」なんて、まるで昭和の時代劇映画の、娘っこのセリフまがいの、オラたちくれえのもんだっちゃ。

スーパーの店頭にはまだだろうと思っていたら、もう数日前に見た、という声があった。まあ、9月も半ばを過ぎたんだから、出てても不思議はないんだが。

というわけで、柿を描いてみた。ということは「写真から」のスケッチだってことになる。写真では4個の柿が、それなりの大皿に乗っている。その皿もれっきとした作家のものだから描く価値もあるのだが、ここではあえて省かせてもらった。こういうシチュエーションなら、昔風の「土筆(筆)柿」の方が似合いそうだが、残念ながら手もとにない。ときおり通りすがりの庭にその柿が生っているのを見ると、欲しいなあ、描きたいなあ、と思う。我が家の庭にも柿の木があったが、虫の害が酷く、駆除をしているうちに本来守るべき柿の木の方を傷め、枯らしてしまった。虫の駆除は素人にはかなり難しいんですね。

絵としては、もっと秋が進んで、日差しの熱も枯れてきた頃、秋の長くなった影を引きずった柿が,、消えかかる夏の炎を抱くように地面ちかくに佇む、そんな風情を狙ったのだが、現実世界はまだまだ35℃の猛暑日。とても「枯れた熱」どころか「真っ盛りの熱」だという「惨敗」感が露わ。この絵から、そういう「悔しさ」をゲットしてくれたら感激だ。

何を見て描くのか

「水溜まりのある道」習作  水彩

高い所から見下ろした、未舗装の作業用道路。そこに水が溜まり、青い空が映っている、それだけの風景。「作業用道路」というのが、この絵のミソだと思う。

路上の水たまりに空や雲が映っている風景は、多くはないがそういう発想がないわけではない。大きめの池や湖に空が映っているのはありきたりだ。そういう意味では、それが作業用道路だからと言って、大して変わらないといえば、変わらない。

それがなぜ、わたしの心を捉えるのかと言えば、「すぐそこにあるのに、もう手が届かなくなる風景だから」なのかもしれない。水たまりに空が映るのは明日でも明後日でも、いつでも起こりうる。湖や池は少し遠いけれど、そこに行きさえすれば、かならず在る。
 けれど、こうした作業(作業の種類までは描いていないが)は、明日には無くなっているかもしれない。そんな仕事は(仕事自体は無くなるはずはないが、そういう仕事を目にする機会はどんどん遠ざかる)もう、「都会人」たるわたしたちの手に届かないところに行きつつある、それを忘れちゃいけない。そんな切なさがわたしにはある。

トラックが水溜まりを通過するたびに、映りこんだ青空は割れ、湧きあがる泥水の中に呑み込まれていく。やがてふたたび、青い空が戻り、数日後にはそこは乾いて、軽い土埃を巻き揚げる。そういうストーリーを一枚の絵に込める。だから、このスケッチを描く。

ギタリストの「背景」

「ギタリスト」 水彩
抽象的だが、どこか具体物があるような、そんな気分をつくる
場面右下「版画のような」材質感もあったりする

どんな背景でもこの絵には可能だが、このやや抽象的な背景のつけ方は “万能” だ、といっておこう。ベストであることは難しいが、安定してベターな背景を作ることができる、というオロナイン軟膏のような意味において。バリエーションもほぼ無限。

難しいテクニックは一つもないが、良くも悪くもその人のセンスしだい。そして、マンネリになりやすい、限りなく。でも、「マンネリ」は必ずしもも悪いことではない。というより、ある種のマンネリを越えたところにしか創造はない、とむかし誰かがわたしに教えてくれた。