共感

             「椿の実とタイサンボクの芯」  フェルトペン

「共感」、「共有」という感覚が、生活する上でのキーワードだろう、と思う。「一体感」とか「協調」という語も、日本人は好きだ。

裏返せば、「共感できない」「協調しない」こと・人に対しては、そう言う考えもある、などとは考えず、基本的に異分子として「排除する」傾向が強いということにもなる。まあ、これは日本人に限ったことではなさそう、というか世界中でその傾向が強まっているようだが。

「空気を読む」という言葉が流行ったが、造語としては鋭い語感覚だな、と思う。聞けばなるほどと思うけれど、なかなかそういう発想はできないだろう。絵画や彫刻などの美術も実は、そのかたちや色から漂ってくる「空気」を読んでいる、ともいえる。違うのは、「空気」がその場やその時を越えて流れてくることだ。

共感や共有、協調などという意識は、アーティストにとって、ときには邪魔者である。けれど、共感なしに芸術は存在しない。誰かが共感して、その作品を遺してくれないことには作品として存在しないと同然だ。データとして残れば、という人もいるが、それもいつかどこかで、誰かが共感してくれる、という「信仰」に近いものをもっているからだ。そしてそれはたぶん間違っていない。

課題

日光・中禅寺湖
              「日光・中禅寺湖」  水彩+アクリル
          アイデアスケッチ 画面を△□で埋め尽くす

水彩の教室で課題を出した。紅葉も今たけなわ。秋の風景を描いてみよう、ということが一つ。その際、色を平面的に塗ることが2つめ。そのために使えるかたちを、(可能ならば)三角形と四角形だけで構成することが3つめ。この3つを同時に1枚の画面にすることを提案した。

課題の大まかな意図は、抽象的な思考へのステップ。色とかたちの「平面化(単純化)」はそうした思考の足掛かりで、現代の絵画思考ともつながる。

単純に秋の風景を描こうと思っていた教室の人達は、大いに戸惑った様子。こんな、 “純” 具象的なモチーフ(写真)を各自個別に選び、しかも三角、四角だけで描けという。なにかいきなり罰ゲームでも食らったような、 “身に覚えはないが・・?” って顔を最初はしていた。

ちょっと無責任な課題の出し方だったかもなー、と実は今になって反省しているところ。もう少し丁寧にかみ砕いて、段階を切ってやるべきだったが、気持ちが急いでしまった。
 そんなわけで、自分でもおなじ課題を背負ってみることにした。色は平面的な塗り方(陰影表現をしない)でも、アクリルでマチエール(素材感)を作っているので、意図しない変化が勝手に現れる(やや違反気味だが)。やってみると、予想通り難しい(皆さんごめんヨ)。でも、たぶんわたしが驚くような発想をきっと見せてくれると思うヨ。

藤澤伸介個展から

個展会場にて。手前が藤澤さん
ワイヤーによる造形、「JAZZ」
キリンビールの箱からだろうか、麒麟のプリントをコラージュしているのも藤澤さんらしい
「ベランダの夜の雨」

東京・神楽坂のギャラリーAYUMI で開催中(11/14~19)の「藤澤伸介個展」に行ってきた。「走り出す色 笑い出す形」と題した展示だが、―切り紙とワイヤーアートで音を視る―と副題がついている。色、形が「音」で繋がっているコンセプト。

作品を見ながらつくづく感じるのは、技術は練習次第である程度真似ができるけれど、センスというのはそれができないものだ、ということ。水彩絵の具を塗った紙をカットし、既に貼りつけられたそれらの上にさらに大胆に重ねていく。言葉でいうとたったそれだけのことでさえ、誰も同じ(印象の)ものを作ることができない(それは全然マイナーなことではないけれど)。

なぜできないかと言えば、そこに藤澤さんのこれまでの人生(のすべて)が重なっているからだ。―カッターナイフの尖端があるところで止まり、曲がり、断ち落とす。どこに貼りつけるかはほとんど直感以外にないが、偶然ということもあり得ない。
 一本のワイヤーにしても、彼の彫刻家としての経験以前に、自分自身の身体的リアクションと一体になった素材の選択眼というものが、かたちと同時にある。そんなふうな感覚(五感)に素直になる(なれる)ことに作家の感性の柔らかさをわたしは感じる。藤澤さんの個展を見るたびに、毎回その素直さに衝撃を受ける。そして、まだ多くの人に知られていないことをさらに惜しむ。