ペンの味わい

             「ヨットハーバー」 ペン・水彩 F4

長く描いているペンスケッチだが、最近また自分の中でちょっとした「マイブーム」になっている。小サイズのスケッチブックに始めると止まらなくなる。先日は一日でスケッチブック一冊(17枚くらい?)を描いた。まだ、これくらいできるんだなーと、ちょっとだけ自信回復した。

野外スケッチでは過去に一日で100枚くらいは描いたことがある(一週間で500枚弱)。写真を撮るよりスケッチの方が早い、などと自信満々だった頃の話。早朝から日暮れまで、一か所から前後左右を描き、歩いたり走ったりしては描き、車で移動しては描きのスケッチ三昧。このときの記憶は今でも鮮明だ。若かったし、楽しかったなー。今では走ることなど思いもよらぬ。

ペンの良さは、何といっても、かっちりした線の強さにある。鉛筆のような柔らかさ、繊細さは望めないかわりに、彫刻の鑿あとのような「一回性」の潔さがある。いちど紙にペンを置いたら、消すことはできない。それがペンの “清潔感” にも繋がっていると感じる。(「消せない」ことが欠点だと思う人には、「消せるペン」というのも売ってます)。鉛筆の柔らかさと、ペンの強さ。一枚の絵の中ではなかなか併存できないのも面白い。

不在

         習作-ペン・水彩 SM
       「不在」 水彩 F4 

スケッチブックの上にザクロが一個、わたしの帰りを待っている・・ような情景。小さいサイズの絵だから、普段は習作など作らず一発勝負で行くが、この場合、背景がごちゃごちゃしていて整理が必要だという要請と、最近ペンがまた面白くなってきたせいもあって、迷わずエスキース(習作)を作ってみることにした。

結果はそれが正解だったようだ。ほぼ黒の明暗だけのシンプルな背景になった。

壊して作り直す

      「満月夜」 ミクストメディア F4


 「見立て」という語がある。一本の突き立てた人差し指をエッフェル塔に「見立て」たり、丸い顔を月に見立てたり(あるいはその逆も)する、アレのこと。日本のプーチンとか、日本のトランプとかマスコミが使いたがる、あの感覚。象徴とか比喩とかにも近いが、もっと視覚的で直感的だろうか。

この絵では青いリンゴを満月に、最も実に近い部分の葉を何かがそこから羽化する、その羽根に見立てている(「絵」を説明しちゃったなー。最悪!)。「見立て」は見る側との「意味の共有」がなくては成立しない (文化的)手法であるから、必然的に、鑑賞者に対して最低限そこまでの想像力を要求することになる。
 たとえば、月と芒(ススキ)を描けば、それは「秋のことだな」との「季節感覚」を要求する。鑑賞者が日本人だけならそれも共有できる可能性はあるが、一年中砂漠とか、ススキなど見たことないという地域の人に、そんなこと言っても通じると考える方にむしろ無理がある。

この場合はどう?作者はAppleのつもりで描いているが、他の果物に見えたとしてもべつに問題はない。問題は、葉っぱが出るタイミングが、Appleが「果実」である時期と、それが腐り、栄養になって次の双葉が出るまでの「時間差を省略」していることを、鑑賞者が容認できるかどうかに賭けていることにある。鑑賞者の心理も「見立てて」いかなくてはならないってわけですね。

現代の(陸上競技の)ハイ・ジャンパーは、見る側(カメラ)にもそれにふさわしい高さで見ることを求めている。わたしもそうありたいと思いつつ、残念ながら、この絵では、そもそも作品のジャンプ力が足りず、説明的で、そのうえ迎合的だった。つまり、つまらないジャンプだということ。
 この絵にもう一度ジャンプ力を与えるチャンスは無いのか・・もう一度壊してから作り直す。それが一番早いし、それしかない。