「青いカモメの会」の展覧会始まったぞ

青いカモメの会 絵画展会場(初日)

今日は実行委員、陳列委員だけでなく、多くのメンバーが陳列を手伝ってくれました。それは自発的で、とっても嬉しく、感激しました! 陳列委員も出品メンバーと同じ年代。10年前なら「陳列の邪魔なんですけど・・」・・。阿吽の呼吸、と言ったらいいんでしょうか。いい人間関係ができてるなーと、思いました。

陳列作品の「高さ調節」も何度もやり直しさせてしまいました。作業してくれた方々、ごめんなさいね。でも高さの調節が会場構成のポイント、とわたしは考えているので妥協しませんでした。ここをいい加減にすると、最初の作品こそじっくり見て貰えても、やがて見ること自体に疲れてしまい、最後の作品などは(絵の良し悪しに関わらず)ろくに見てもらえないまますっ飛ばされてしまう、ということがあり得るからです。

そのために作業量が倍増してしまいましたが、誰も文句も言わず、ちゃんとやってくれました。メンバーのアイデアで、高さ調節用のガイドラインをテープで視覚化してくれたりしたおかげで、作業時間も短縮できました (^-^;。90点近い大量の作品を、スッキリと最後まで疲れずに見ることができる会場になったのは皆さんのお陰です。本当にありがとうございました。お疲れ様。でも、今日が初日だってこと、まだ忘れないでね。ご覧くださった方々のコメントもお待ちしています。

桜を描くのは難しい

       「桜のある風景」 水彩

桜に対する日本人の “熱愛” は “超” 特別だ。その一種の「異常性」が普通の日本人(わたしも含め)には正常と感じられている、という異常性の出発点は「小学校の桜」にあるのではないか、と多くの人が述べている通りだと思う。わたしの知る限りでも、校庭に桜が無いという学校を見たことがない。現実空間には存在しない「デジタル小学校」のようなものがあったとしても、きっと画面のどこかに桜が入っているに違いない、とさえ思う。
 さらに花のタイミング。幼少期の大きなイベントは多く学校に関わることが多い。その中でも入学、卒業は特別な意味を子どもにも感じさせる。その背景にいつも桜がある。東日本大震災は3月だった。震災直後の満開の桜は、その清々しさゆえに喜びよりもむしろたくさんの日本人の涙を誘ったものだった。桜は単に花であるだけでなく、深い心情を伴った象徴でもある。そのことが、モノとして桜を描くことをさらに難しくする。

そういう意味で、ほぼ100%に近い人が、一度は桜を描いた(描かされた)記憶がありそうだ。そしてその90%以上の人が、(ピンクをただ塗りたくる以外に)どう描いたらいいか、悩んだ経験を持っているに違いない。わたしも小学生の頃に感じたそのコンプレックスがずっと尾を引いて、今も解消できずにいる。そのうえ、風景としてはあまりにも普通過ぎて新たな視点を見出しにくい。桜への熱愛に比して、公募展などでは桜の絵がむしろ少なめなのは、きっとそういう理由だろうと思う。

「失敗」について

3/29のブログに同じモチーフの「春の川辺」を載せました。この2枚はそれとは別に描かれたものです。上の絵が一番最初、下が一番最後です。サイズも比率も、よく見れば構図も少しずつ違っています。そもそも元の写真には遠くの家などありません。

一枚目が失敗だったから、2枚目、3枚目と描いたのかというと、それは違います。それぞれに、気に入ったところとそうでないところがあります。だから描くのです。気に入らないところを直す、というのともちょっと違います。それはそれ、これはこれなんです。もう少し良くしようという志向より、こうしたらどうなるか、こういう感じを描けるだろうか、という自分自身への「興味」に近いかもしれません。

同じものを何枚も描いて飽きないか?と言われそうですが、そもそも同じものを描いているとは感じていないのです。川とか木とか土手とか、同じ要素を使っている以外は別の絵を描いている、だから飽きないのです。逆に感覚にピンとこない時、それが最初の一枚でも、 “飽きる” わけでなくとも、途中で興味を失ってしまう時もあります。
 何枚も描けるときは、きっと何かがわたしの感覚に触っているのでしょう。それが何なのか、描いてみなくては分からないのです。