秋になりました

秋の静物 (制作中)

少し風邪気味。先日病院へ心臓ペースメーカーのチェックに行ってきた際、後ろの方で凄いくしゃみを連発している高齢の女性がいたが、そこから広まった可能性は無きにしも非ず、かな。わざわざ振り向きはしなかったけれど、たぶんマスクはしていたに違いない(院内ではマスクをしていない人は見かけなかったから)。17日にスケッチ会を予定しているから用心、用心。

ごく最近はスケッチ動画を中心に動画作りを優先させている。動画作りを始めると、勉強のためもあって他の人の動画を見る機会も多くなる。個人的な動画を見ていて感じるのは、一人一人がほんとにタレント(才能)がある人たちなんだなあ、ということ。

釣りは得意ではないが、釣り(狩り)のビデオはつい見てしまう。そこでは釣りのテクニックも紹介しながら、そのあと自分で捌くだけでなく、釣果を材料に板前さん顔負けの美味しそうな料理までつくってしまう。盛り付けも、そして食レポまでと至れり尽くせり。その間の、人柄を感じさせるトークも見事。ついつい勉強を忘れて、続けて何本も見てしまうほど魅力的。彼(女)らの、それぞれの勉強や経済的、時間的、体力的投資、そしてリスクの大きさを考えると全員尊敬してしまう。

動画を個人的に発信できる時代になったことは文明的にも文化的にも凄いことだなと今さらに思う。それはある意味で視聴者であるわたしたちを平均化する一方で、発信者の一人一人を等身大に個別化する文化でもある。一人一人を個別化するということは、言葉を換えれば「人間」から生身の「動物」へと戻す方向性でもある。わたしたちは1万年前の人類と生理的にはほとんど変わらないということを、彼らはわたしたちの眼を楽しませながら間接的に示してくれてもいる。進化と進歩のズレの大きさこそ、ある意味で80億の人間を支えていることも、そのズレが様々な問題を引き起こしているのもご承知のとおりだけれど。

ふるさとの川‐2をアップしました

11日ぶりに動画をアップしました。毎回いろいろ工夫していますが、今回もいくつか新しいことを覚えました。といっても、覚えるそばから忘れてしまうので、次のアップロードまで記憶保持ができるかどうかはほとんど自信がありませんが。

ひとつふたつ、新しい機材も必要なようです。自分でも不便を感じていたので、少しはそういう感覚も身についてきたのでしょうか。

不思議なもので、「ふるさとの川」を描いてみるまでは、正直言ってあまりペンで川を描くなどに興味はなかったのに、やってみたら「もうちょっと」と欲を感じたのです。描きたくて描いたというより、描いたから描きたくなったというわけです。文字どおりの本末転倒ですが、こういう場合は結果オーライ。でも、もう一本作ったら、ちょっと方向を変えてみようかなと考えています。

少し風邪気味だったので、ナレーションが少し鼻声になっているのが可笑しく、リアルに感じました。アップしたのはいいのですが、目はショボショボ、坐りっぱなしでまた腰痛を心配しています。

Akino Arice, here. 秋のアリスで~す

「秋のアリス」 水彩・F8

知人の絵がなんとなく「坐り」が悪いので、「どこか調子悪い?」と尋ねたことがある。「最近腰の具合が悪くって」。

この画面の、変な具合に傾いた感じがわたし自身のそれを暗示しているような気がする。この「傾き」はもちろん、画面内に微妙な動きを創り出そうという意図的な構図意識によるものだ。でも、なぜ「意図的に傾けたのか」とさらに半歩追及すると、やっぱり「腰」が無意識に関わっていたのかも、と思わないでもない。

教室のモチーフによるデモ制作を、時間を作って(とりあえず)仕上げてみた。途中で「そういえば(わたしは)子供の頃から、一つのことをちゃんと仕上げるという意識が薄かったなあ」と、ふと頭に浮かんだ。

マラソンで言えば、ゴール直前になって、急に路傍のラーメン屋さんで食べている人が気になって、いきなりその隣に駆け込み「美味しい?なら、オレも!」といいつつ、すでに(いま進行中のマラソンとは無関係の)ラーメン研究?に頭を突っ込む。例えが適切かどうかは別として、そんな感じ。「ゴール直前まで来ているから、ここで中断するのはもったいない」という意識が薄い。じぶんが成功者になれない理由はここかな?とか思いつつ、「どんなものにも『ゴール』というものはないのだ」などと、わかった風にうそぶいている自分の、「坐り」の悪そうな姿もこの絵には見える。