制作三昧

「3つのかたち」習作

涼しい、というよりちょっと寒い。ここ3日間ほどずっと雨と霧。時々はかなり強く降った。近くのチョロチョロの川も茶色の濁流となり、川幅も5倍ほどに広がっていた。

大きな絵はなかなか進まない。事前のエスキースが不十分だったから。なぜ十分にエスキースできなかったのかと遡れば、結局は自分の中の迷いに原因がある。なぜ、何を、どう迷うのか、それは言わないことにしておく。

小さな絵はいろいろ試みる。天気は悪いし、涼しいし、そもそもここで他にやれることは、本を読むことと寝ることくらいしかない。でも、暇というのは貴重なものだ、と思う。暇を大事に活用する、という考えがすでに間違っている、とも思いつつ。

誰にもあって、一つも同じでない

不思議なことに、母の死は「死」ではなく、単に苦しみのない安らぎであり、体は「死体」ではなく、物でも偶像でもない、ある意味で中途半端な「何か」だと私は感じていた。

死亡診断書を貰い、真夜中の病院から母を乗せた車で自宅に向かう間、私は(きっと興奮していたせいもあると思うが)特に悲しいとは思わなかった。むしろ、吸入マスク、チューブや各種の点滴、医師・看護師などの「介在者(物)」なしの、やっとストレートな「肉親」に戻れたような気分で、毛布にくるまれた母に話しかけた。「家に帰るよ」

「おっぱい」と血は、基本的に同じものだ。女性なら誰でも知っている医学的事実が、男性には案外知られていない。でも、それは感覚として哺乳類全てに共通知覚されていると私は感じる。私たち(野生動物も含め)はみな、それぞれの「母の血」を吸って育ってきたのだ。

火葬の直前まで母の頬を何十回も触った。冷たいというより、気持ちがいい(葬祭業者の「冷却器」のお陰ですが)。そして骨を拾った。束の間の、擬似的な介護の真似ごと。私が吸ったはずの母の萎びた乳首、見られることを最初は嫌がった便の始末。私の幼、少年時代の全てを見てくれた、いくつかの骨を持ち帰った。

絵の価値、絵を描く価値

母の葬儀のあと、何人かの人に「今は何をやっているのか」と聞かれた。「昔も今も絵を描いています」「売れるのか」「今は売る気がない」「それでは絵を描くのは無駄ではないか」「楽しいのはいいが、それで生活できなくては何にもならないではないか」。

説明などする気もないが、絵の道具もないし、暇だから話し相手になってやった。「酒は好きですか」「結構飲む」「それでお金が入りますか」「馬鹿ではないか。酒はお金を出して買うに決まっている」「酒は身体に悪いでしょう」「それはそうだが、ストレス解消でもあるし」「ストレス解消はいいが、それで体を壊し、お金もかかるのは無駄ではないか」。そこまで言うと、たいてい相手は私の意図が解って、突然攻撃的になる。

「だいたい芸術なんて高尚なフリをしているだけで、社会の何の役にも立たない」「芸術がわかるんですか」「何の役にも立たないかどうか、どうやって確かめたんです?」「酒が体、特に脳みそに悪いのは証明済だけど」。まあこれ以上は、仮に腕力に自信があってもやめておく。

「目先の役に立つものは危険だ」と私は思っている。例えばきれいな空気、静かな環境、そういうものはすぐに役に立つものではない。が、「空気をきれいにする機械」「静かな環境を整える会社」、そういう「役に立つモノ」には私の中の警戒警報が鳴る。絵を描くこと、絵を見ることは、きれいな空気や静かな環境のようなものだと考えている。