ああ、九月

「Apple-3colors」(未完) 2020

「ああ五月」「ああ、皐月」とかいう詩や歌をどこかで目にした覚えがあるが、それは五月(皐月)の時候の美しさや、それに重なる快活な情感への賛歌だと記憶している。

「ああ、九月」は「ああ、もう九月になってしまった(しかももう半ば近い)」(それなのに、何にもしていない)という、自責の「ああ」だ。ああ。コロナのせい、暑さのせい、隣家の犬がうるさいせいだ。

やらなくてはならないことを一寸先に伸ばすごとに、心が1ミリずつ縮んでくるような気がする。寿命のローソクが確実に短くなるというのに、また隣家の犬が吠える。いったい、なんだってあの犬はあんなに吠えるのか、隣家の人々は全員耳が遠いのだろうか、それとも耳栓をしながら私に向かって吠えさせてでもいるのだろうか。それに、なんだって九月だというのに、こうクソ暑いのか。私の家に、誰かが嫌がらせにこっそり熱風を送り込んででもいるのだろうか。

私だけが「ナマケモノ」ではないはずだ、たぶん。きっと同類はいるはずだ。隣家の犬や猫やふくろうやミミズの声に悩まされて、なーんにもできない人もいるはずだ。が、そういう人は私には見えない。我が家では、全員が死体のようにゴロゴロ床に転がっているというのに、窓から見える人たちはこの暑さの中を、普段と変わらない速さでさっさと歩き、常に何らかのお仕事をしているように見える。しかも涼しげ。何か、特別な飲み物でもあり、それを私が知らないだけなのだろうか。ああ、苦月。十月は目の前。心がぐんぐん縮む。なのに、私の身体はなぜか仕事に向かうことを拒否している。

「落ち葉」と「枯れ葉」

落ち葉。夕方には虫の声も

連日暑い。今日も西日本では38°超えた地点がいくつかあり、関東でも35°以上を記録。明日から9月だが、近年ではこの時期のこの暑さは、もう珍しくなくなった感じがする。それでも、1週間ほど前から、こおろぎの声を聞くようになった。秋だな、と思う。

庭の木々も草もカラカラに乾いている。午後から久しぶりの雷雨と言うから、期待して空を見たが雰囲気だけ(夜になってから、 10分ほどお湿り程度に降った)。それでも少し涼しい風が吹いてきたから、日暮れに、近所を自転車でちょっと散歩した。

公園の通りはもう枯れた葉が落ちて溜まっている。日照りのせいかもしれないが、目にはいかにも「すでに秋」の風情。ふと、「落ち葉」と「枯れ葉」の違いを考えてみた。

枝についたまま枯れる葉もある。病葉(わくらば)、朽葉(くちば)がそれにあたる。反対に、風雨に叩かれるなどして、緑のまま落ちる葉もあるが、落葉生の木々では、植物自身の生理として自ら葉を落とす。俳句では、落ち葉も枯れ葉もどちらも冬の季語らしいが、落ち葉の方がよく使われるようだ。柿の葉が落ちれば「柿落ち葉」、椎の葉が落ちれば「椎落ち葉」。柿枯れ葉とか椎枯れ葉とは言わない。後者では、なんだか木自体が病気になったように感じられるから不思議。

自分に還る時間?

「 Apple-Yellow」 2020

しばらく制作を休むと、頭も体もついていかなくなり、特に制作途中の作品に気持がつながるまでには、かなりの時間がかかる。だから、たとえ制作時間が短くても毎日描くのがよい、と昔はよく言われたものだ。今もそう言う人がいるのだろうか。

8月も後半に入って、やっと制作への神経回路が繋がり始めてきたのを感じる。ほぼ丸々1ヶ月かかった。この1ヶ月はまるで自分の頭の一部をどこかに置き忘れ、他人の手を借りて描いているような感じだった。そして寝る前にいつも同じことを呟く。「いったい自分は何をやっているんだろう」。

本当は絵なんか描いている場合じゃない、のかも知れない。ただ、描かないことには、自分のいる場所が無い、そんな気分になって落ち着かない。とりあえず、自分を落ち着かせ、何かを考え、何かができるようにするためにも、(私にとっては)絵を描く時間が必要だ。

AIが絵を描き、それをAIが観賞し、その流れの最下流で人間がその「絵」を見るようになるだろうか。その時、「絵を描く時間」はどんな意味を持つだろうか。